私達の親世代は生きることに必死でがむしゃらに頑張ってきたが、しかし私達一世の年代は高度経済成長期のピーク、或いはピークを超えた頃で、何のために頑張ってきたのだろうと自問自答し人生に対する回答を要求し始めた。親世代は先ず生きる為に組織人間、会社人間になったのであり、その反動というか、ベクトルの向きを180度変えるため人間とは何ぞやに対してそれなりの回答を求める時代に入っていた。では二世の生きる現代はどうかというと、糧を得るための外的人生でも内面の充足のために外的犠牲を伴う内的人生でもなく、内外を調和させようとするバランス人生を送るようになっている。二世は一世の歩みを内的には相続するとしても外的な指針や教会システムをそのまま相続する必要もないし、押し付ければかえって悪影響を及ぼしかねない。み言葉に反するように思うかも知れないが、み言葉は決して戒律としてこれをするなあれをしろという類の教えではなく、全てのみ言葉は内的霊的な言葉として理解し相続すべきだ。堕落は確かに性が関係しているけれども、だから外的に性を遠ざけろというのは一世には納得できるとしても二世には理解できない。堕落に外的な性が関係したのは結果であって堕落の内的霊的意味は性の背後にあると思えるのがみ言葉に真摯に取り組んだ二世の理解だ。当然のように結婚以前に関係を持ったら堕落だとか、離婚は堕落だとかいうのは彼等の理解を得ることはない。同じようにLGBTの問題も一世の何が何でも認めないというのとは違ってくる。私は教条主義を否定している立場だけれども、勿論多くの一世は教会の事細かな戒めを守ってこその勝利者だと思っているが、どちらが正しいかというのは論点ではなく、私は私の良心に鑑みてそう思うだけの話だ。だから私は子供にも二世達にも、時代は後天時代だし今の時代、教会の枷をはめ込む必要はまったくないと伝えたいし、良心を中心として内外のバランスをしっかりとり、摂理観を培って欲しいし自分の使命に生きてほしい。大河のように時代は流れ、刻々と変わる中で摂理観も人生観も変っていくのだから、、。
0 件のコメント:
コメントを投稿