万物を食べれば体内の血肉となり、男女の性を食べればそれが背負う霊界となる。偏食に陥らない限り人間は普通何を食べても体の成長と維持に悪影響を及ぼすことはないが、しかし性に関しては誰をどう食べるかによっては自分の霊界に支障をきたしてしまう。当然そう信じてきたし、相対以外の関係は持つべきではないと戒められているが、戒めに抑えられている以上信仰から認識には至らない。しかし言っておくが戒めを犯せと言う気はさらさらない。何年も信仰年数を経ていればわかるように、どれだけ断食しようが食欲が減らないのは当然であるように、どれだけ戒めを守ったところで性欲が減ることはない。逆に遠ざければ遠ざけるほど渇きは増すばかりだ。もし何らかの理由で、罪や裁きと不倫との直接の関係性を自分の中で否定出来たら、一気に一線を飛び越えて己が性の解放に向かうはずだ。アボジの聖和は食口の戒めの縛りを幾らか緩めているし、更に教会への様々な疑問や不満は更に縛りを緩めている。そして更に更に教会問題が世間に露呈されたことでもはや縛りは緩々だ。だから戒めでは既に自分を縛り守ろうとしても限界があって、甘い機会に出会おうとし誘惑の微かな手引きでもあれば、敷居を跨いで居間から畳の間に簡単に入るように一線を超えてしまう。自らの良心が真に立つためには、もはや戒めではなく性への尊厳をより確立する必要がある。戒めは恐れとして働くが、尊厳は畏れ、すなわち畏怖の念として働く。畏怖の感情というか心情を、訓読を通して、或いは天を慕うことで学ぶ必要がある。自らも含めて再度念を押すべきことは、性欲を抑え遠ざけようとするのではなく、これほどに魂の乾くほどに求めている肉を持つ私は、本当に求めている内的霊的な乳と蜜の流れる対象を探し出す道のりの途上にあること。そして知恵ある者として安易な対象で満足できると決して思わないこと。手に届いてしまえば、本当の得るべき対象を求める内的力を失いかねない。私の一途な願い、欲望は、決してイメージさせられている対象ではない。それは地に堕ちた天使長が見せるマーヤー(幻影)に過ぎない。
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