2023年6月28日水曜日

逍遥から本殿に向かって 22.

 アボジが基元節を迎えることができず、それを目前にされながらも聖和されたように、一世達は本体論の中心である絶対性を、自分の概念として捉えることができずにあの世に旅立つ。一世は既に終活の時期に入ってどんどん旅立っているのだから、別にそんなことは関係がないと思うだろう。そうなのかも知れないが信仰の結論であり果実として提示された絶対だという認識がある者にとっては、先行き短い人生を想い、それならばせめて子供達二世にその結論を伝えて霊界人事を迎えたいと思うのは当然だし、絶対という創造秘儀を伝えなくて何を二世達に伝え残すのだろう。二世達には祝福を与えたことで十分親としての役目を果たしている、勿論そう思うだろう。しかし祝福の本質は性による血統転換にあり、親が既に血統転換されているのにどうして子供たちに血統転換が必要なのか。二世に与える祝福は、一世が御父母様を通して受けた祝福とは意味合いが異なっている。一世が祝福の本質を受け取れずに、すなわち祝福を受けても血統転換されずに、その形だけに執着して受け継いでいくのであれば、それは二世を血統転換させて一世がそれに繋がる必要はあるのかも知れない。しかし大方の祝福家庭は、子供達が形の上で祝福を受けるのが最重要課題であって、祝福さえ受ければ安堵しているのが実情だ。おそらくそういう祝福家庭は信仰が実って神に愛された勝ち組だと思っている。しかし全体と個は通じていて、各家庭の血筋という縦割りではなく、全体あっての個であり個あっての全体で、勝ち組も負け組もない。子女が様々な立場にある祝福全体の状況を神様がどう捉えておられ、また摂理的位置付けとしてどう働かせるかだ。その点に関しては御母様の見解を何としても知りたい。その見解次第で私に対する御母様の権威が決まってくる。祝福の本質は血統転換にあるし、血統転換は性なくしてはありえない。

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