2024年11月21日木曜日
今日の想い 1344
久方ぶりに訪米以前にお世話になった一八の先輩夫婦に会ってきた。こちらは年相応に薄くなり体形だって以前の見る影もないが、その先輩は重ねた齢にしては若々しく、90年代当時と差ほど変わってない。時間も限られていたしそれほどのめり込んだ話はしなかったが、私が思っている教会の状況や摂理の把握とは随分ちがった認識を持っている印象は受けた。解散請求に対してもっと戦う姿勢を持つべきではないかとの問いに対して、アボジは反対する者に対しては勝手にやらせておけというスタンスだったし御母様も二世三世に力を入れておられて問題に対してどうこうしろとは言われないという回答だった。周りは見えないか無視して御母様にだけ意識を向けるのであり、起こったこと、起こっていることに対しての個の意見というものはない、或いは持たない。勿論私がそう発言すると相手もいい気はしないだろうから言いはしなかったがそう思った。今は食口達が昔のように同じ考えで同じ思いで同じ活動をしている訳ではない。しかし食口は同じであるべきという思いが未だに抜けずにいるものだからそれ故に齟齬が生じてしまい、違いを受容できないセクトが発生する。教会が分裂したのはみ言葉の解釈の問題ではなく、違いを受容できない心の狭さから分裂している。私は御母様と御母様に従う教会を否定しないし、H1H2であっても否定はしない。否定しないがのめり込みもしない。教会の論理解説と信仰指導に忠実な食口は忠実な食口で彼らなりの使命があるはずだ。しかし忠実に見える食口であればあるほど、一般社会には独善的色合いが濃くみえる。その状態も日本の他の何々村と同じで、中心者が何を言おうが受け入れるのが当然、右に倣えが当然という日本特有の自我圧迫の段階から抜け出せないように思う。
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