独生女信仰を受け入れられるかどうか、それ以前に論理的には破綻しているだろう。一世、特に原理という論理から入った食口であればそう思って当然であってそうなると今の教会には距離を置いてしまうはずだ。しかし論理を動機とする思考が人間を誘導する時代はすでに過去となっている。今の時代は意志を備える時代であり、個の魂活動で言えば思考と感情とが一つとなって人間としての意志を発動する。地上活動で言えば思考を中心とした科学と感情を中心とした宗教、これが一つとなって芸術や文化を生む。原理という論理にだけ比重を置いても摂理は進まないし、感情を特定のベクトルに向かわせた信仰感情にだけ比重を置いてもこれもまた摂理は進まない。意志を備える時代でどう意志を生むかが問われているのであり、地上に於いてどう芸術創造をするかが問われている。現代はキリスト教文化として花開いた芸術や文化様相が基盤になっているけれども、これからは心情相続した者達が中心となって、心情文化として花開く芸術や文化様相になっていく。いやアボジがメシヤであって御父母様が真の父母として勝利されたのであればそうなるべきだ。独生女論独生女信仰がおかしいと言い張る者も集まりも、それをどう超えてどう摂理を中心的に進めるかの想いも意志も感じられないし、今の教会の集会や修練会に参加しても、今もって旧態依然の方法でアベル的希望的証しを壇上から説法し、食口の信仰を更に硬直化させるよう仕向けているだけだ。話す方も話す方なら聞いて受け入れる方も受け入れる方だ。そんな授受作用によって摂理をどう進めてきたのか、私がおよそ50年歩み続け見続けてきてどれほどの基盤と言えるものを築き上げてきたのか。従来の信仰教育は先天では功を奏しても、個々人にまでありとあらゆる善神悪神の業としての荒波が押し寄せている今となっては乗り切る木切れにも筏にもならない。修練会でみ言葉面(ヅラ)をした霧散する言葉であったり、信仰面をした薬にもならない証しだったり、今はそんなものに関わっている暇もないほど摂理としては轟音渦巻く激流の最中にいる。その実感のない教会も食口も、もちろん反対派と旗を立てる集まりも、彼等はいつから信じる神を挿げ替えたのかと思うほど摂理に無頓着で実に神の願いからズレたところで歩んでいる。そうなると頼みは祝福を受け心情相続した自分であり、自分の中に用意された良心であるのに、未だに中心柱が定まっていない。
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