おそらく今の食口達に、聖霊に満たされた体験や神霊が降りた体験はないのだろう。昔あったという食口もいるかも知れないが、遠い昔でその感覚を忘れてしまったのだろう。清平で身体の癒しに与ったが、それは外的なものであってそういった内的体験だとは思わない。聖霊体験は超感情体験であり、神霊体験は神の叡智が下る超思考体験だ。聖霊体験をもって信仰の本質である母の位相に入るのであり、神霊体験は聖霊体験を積み重ねていく中で神とひとつになる父の位相に入っていく。教会が神霊協会と冠しながら神霊が降りない神不在のままの教会であるなら、教会の摂理的意義は失っていかざるを得ない。最近の日曜礼拝に参加することで聖霊神霊体験を受け取れる自分と意志を確認できるだろうか。自分の中にそれらに向かう内的意志を備えて内的体験を増やすことで、私に真の母が共にいて真の父が共にいる、即ち真の父母を内在する私になれる。教会の教えを守り願いに応えるべきなのは入り口に過ぎないのであって、それを目的化されていないか、或いはしていないかを自分に問うてみる必要がある。確かに願いに応えなければならないとひた走りに歩んできた。一世であればアボジと接した機会も多く、いろんな思い出話を語ることもできるだろう。しかしそういった体験がそのまま内的体験とはならない。またどれだけ夢にアボジが現れたとしても、それもそのままで内的体験をしたとは言い難い。感情を超えた感情を受け取り、真理を超えた神の叡智を受け取る、という霊的体験こそ信仰方針とすべきだ。献金や伝道が無意味だというつもりはない。献金活動も伝道活動もそういった体験を得る活動とすべきだ。そういう体験に繋がってこそ本当の献金であり伝道だと思う。
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