旧約では割礼を受け、新約では洗礼を受け、そして成約では祝福を受ける。割礼を受けることで神との契約を結ぶわけだが、これは神の人間の肉体への働きかけだ。洗礼を受けることで神への信仰を立てるわけだが、これは神の人心、すなわち人間の魂への働きかけだ。そして祝福だが、これを受けることで神の息子娘となるわけで、これは神の人間の心霊への働きかけとなる。私達は神の霊を祝福を通して戴いているという、この内的誇りを常に保持することでクリスチャン達の内面とは異なっていることを理解する必要がある。というのは戴いた霊という実感は未だに霊的に鈍い私達にはない。だから祝福の真の意義もあやふやで実感としてないし、やもすれば御父母様に対しての不信や今までの歩みがさも無駄だったかのように憂う食口もいるが、しっかりと自分の良心に意識的に尋ねることが必要だし、自分の良心を通して教えられてこそ魂に実感として積み重ねられる。アボジが聖和されて私は途方にくれたけれども、み言葉という遺言書の最終結論の一つとして良心宣言が謳われたのは実にありがたいし、私達の道は羅針盤である良心に照らされるはずだし、良心を通して生きたアボジに向き合っている。良心に尋ねながらみ言葉を訓読し、良心に尋ねながら方向性を決め、良心に尋ねながら喜怒哀楽を味わい、そうすることで自分の良心は朧げな印象からより実感的な良神となっていき、自分自身が祝福により与えられた神の分霊の表れと変革する。これこそが過去の私に対する新自己、生まれ変わった真の私であり地上のアセンション(昇華)だ。
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