先ず論理によると父があっての母であり母があっての父、となると当然真の父が立つことで真の母が立ち真の母が立つことで真の父が立つ。と言うことは真の母が崩れれば真の父も崩れる、と言うことになる。敢えてここでは原罪のあるなしは問わないことにしておく。誰が堕落の本当の意味が何かを極め、堕落による原罪の本当の意味が何かに至ったかは甚だ疑問だからだ。朧げなイメージでしか捉えていない言葉を恰も本質を得ているかのように使って、あるとかないとかと言うのは馬鹿げている。また堕落人間という堕落の原因による結果存在が堕落の意味を問うて近づくことはできても本質に至ることはない、とも思っている。だから御母様が話される原罪ありなしも私自身どう捉えることもできない。ここまでが論理を通して紐解ける私の限界で、いろんな先輩方の話を聞いても感情の思い入れが含まれた言い分であったり、或いは摂理を進める為にはと言うような意的な食口の言い分であったりだがどれも私を納得させるには至らなかった。御母様を批判する食口は御母様に対して信仰を捧げる食口達を当然のように批判しているけれども、彼らがいることで御母様は真の母としての面子が保たれているし未だ崩れてはおられない。もし食口の誰もが御母様に対して手の平を返したら真の母は崩れ、真の母が崩れれば真の父の位相は御父様からはなくなる。だから私としては信仰を賭して御母様についていくと決意を見せる食口達には感謝以外の何ものもない。実際、まだ語られない多くの内実が御父様にあり御母様にもあるはずで、私が御父母様御聖婚の御写真を見た時の、似ている以上に親子のような顔立ちに暫く釘付けされたけれども、そんな寝言は棚に上げて置くとしても、どんな驚くような内実があるかは御父母様しかわからない。しかし明らかなことは、祝福によって戴いた私の分霊は明瞭に御父様と御母様から生まれた分霊だ。それは否定の仕様がなく御父母様が崩れれば当然真の私は霧散してしまう。
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