親なら誰であっても子供は可愛いし、真っ当な人間になって欲しいと思って育てている。しかし日本人にとって真っ当な人間とは他人様から指さされない人間だと思い込んでいて、置かれている社会環境に受け入れられるかどうかが心配だし、引き籠ったり成績が付いていけなかったりすると途端に親として苦悩し始める。自分はアメリカ生活が長かったが、そうであってもやはり日本人特有の村社会意識は骨の髄まで染み込んでおり、教会が掲げる子女の在り様そのままを教え込むことに相当のエネルギーを注ぎ込んだ。私にとっての村社会とは個団であり教会だった。聖日礼拝日曜学校の参加から始まり子女の修練会やキャンプ、他の祝福子女に合わせて行動できるように付いていけるようにという心配で常に接していた。しかし親の心配を知りながらも子供はことごとく教会を嫌った。常に嫌々ながらの行動だった。海外に出て日本をみると、どうでもいい集団社会故にやらざるを得ないことだったり、子供の成長と独立には必要がないどころか返って害になりかねないという村社会的指導や教育で、子供達が雁字搦めになっているのが見えてくる。なんとか社会の枷にはまるように成長させようとするけれども、そうなると子供の自主性や主体性に対する教育は等閑になる。日本のあらゆる分野において自主性主体性の欠落が見え、そんな国は全体主義でなければ立ち行かない。私は子供に対してハイスクール卒業を機にパッタリと押し付けることを辞め彼等の選択に任せることにした。たとえ間違った道に歩みかけてもそれでも親として選択肢は提示するけれども選択は彼等に任せた。勿論それで万事うまくいくはずはない。しかしそれでも親がしゃしゃり出ることは彼等の甘えを助長し主体性の芽生えを塞ぐことになる。全ての祝福子女に対して勧めたいのは、先ず親元を離れ日本を離れること、そして自分の中に神を見出す、即ちみ言葉の上で良心を見出し従うこと、この二つだ。どれだけみ言葉を学ぼうにも日本の空気の中では教会内でさえみ言葉を受け取るだけでその本質を掴もうとはならない。その受け身のみの意識は他の日本人子女にも言えることで、日本に居ながらにして自主性主体性を身に着けることは相当の覚悟を要する。解散問題がどうなろうとも教会も日本も今のままでは立ち行かない。危機は逆説的にはチャンスだ。雁字搦めの日本、信教信条の自由さえ蔑ろにする日本であって今こそ出エジプトを神は願われている。日本は遠からず打たれる。それは神の摂理だと私は確信している。
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