使命を認識している者はそれを全うするために必ず試練を受ける。イエス様の三大試練を受けて三大祝福への道を人類に残されたのであり、トランプにしても数回の暗殺の危機に晒されそれを乗り越えて今の大統領の座がある。アボジが超えられてきた試練は食口であればよくわかっているはずだ。試練は試練を与えることを神霊が許した立場で受けるのであって、超えられない試練は与えられない。そう言われている。私は元来がひねくれているから、超えられないと思えるから試練であって、はなから超えられると思える試練であれば試練とは言わないだろうと思う。要するに後から思えばこそ超えられたのであって、試練はその言葉通り伸るか反るか、生きるか死ぬかの試練だ。節目節目に襲い来る試練に辟易しながら魂を削ぎ落し、その魂で新たな救済や成長の為の摂理的歩みを踏み出していく。今という時代の通過点は今まで築いてきたシステムの全てを崩壊させ、新しい時代の夜明けに相応しい環境圏を築いていく。その為の地ならしが為されている。炙り出された巨悪や既存システムの抜け穴で己が欲を満たしてきた者達の悪行をSNSで暴露されながら、そして経済の土台であるドル基軸体制ですら崩壊しながら、コロナ以降の世界は根本から変わっていく。局所的戦争ではあるものの、世界は大戦を戦ったかのように世界的大混乱期に入っている。ハイパーインフレで通貨が紙屑になろうとしているし、経済も社会も安定した国などどこにもない。更にこの混乱状況は始まったばかりでこれから更に混乱度は増していくだろう。明日をも知れないそういう状況下で、恒星的存在として光を放つのは血統転換し夜の神様に帰属する私達でしかないだろう。表面的には何もかも奪われ何もない私達が天の権威故に立たされている。何の希望もないかのような私達が人々に与えられる希望の全てを持ち合わせている。試練の只中にあれば青色吐息だが、この試練を超え、いらないものを削ぎ落した魂で新しい後天開闢時代の希望の一歩を踏み出していく。その希望の一歩は人類の希望の一歩だ。私達の何が人類をリードしていくか、試練の最中にあっては何も見出せないだろう。しかし生きた神様であるから必ず私達の中に用意しておられる。でも今はただただ思いっきり打たれることだけに専念することだ。
2025年8月30日土曜日
2025年8月14日木曜日
今日の想い 1407
一体、元首相は何を銀貨30枚と見て受け取り、教会を左翼連中たちに売り渡したのだろうか。教会は日本の霊的中心であったために教会を売り渡すことは日本を売り渡すことに等しい。勿論以前記したように、教会自体も実に脇が甘く狡猾さの欠片もない稚拙な者達の集まりだから、教会の尻尾を捕らえるのは実に容易かったろう。摂理を担う者としての使命の大きさをもっと自覚しておれば、用心に用心を重ねたはずでこうはならなかった。教会を売ってしまえばそれで全ては事足りると思ったのかも知れないが、日本国を奪われかねない状況になっている。日本政権のしくじりによって天から打たれる以外の日本の生き延びる道は遮断されてしまった。しかし蕩尽を受けることで、周辺国からの侵略は辛うじて回避されるのかも知れない。元首相がそれほどの恐ろしい巨大爆弾に点火した自覚は未だにないのだろう。おそらくその自覚があれば、ユダが人知れず命を絶ったように気が狂うほどの良心の責め苦を受けるはずだ。日本はいつ何時侵略されるかも知れないという、国防意識という衣服を脱ぎ捨てた裸のエバであり、裸故に何の抵抗もないとなるとそれ故に天は蕩尽を用意するしかない。摂理的にはサタンの侵略を防ぐための蕩尽と見ることもできる。天災で弱りきって破綻しかけた国に侵略をかけることは世界中から非難されるからだ。アボジが、要求する摂理的要件を満たさなければ日本は太平洋の藻屑となると言われたのは、それがノルマの完遂だと日本の食口は思って搾り取ってでも捧げてきた訳だが、果たしてどうなのだろうか。アボジの言葉はそれが食口の前であっても、日本国に対して日本を統治する者に対して語られていたのかも知れない。そうなると国としての摂理的要件を数少ない食口が肩代わりする時点で無理があるだろう。アボジは日本食口に対して生き延びる道を海外、とりわけアメリカと南米に用意されていた。しかし一端アメリカ人事となった日本食口を環故郷摂理で皆帰るように指示され多くが帰っていった。アボジは後にその指示を悔やまれた事実がある。それは環故郷摂理で士族復帰されるほどの信仰も力量もないと見て悔やまれたのか、滅びかねない日本に居留まらせたことに対して悔やまれたのか、そのどちらだろうか。それとももっと別の摂理的な意味から悔やまれたのだろうか。
今日の想い 1406
2025年8月12日火曜日
今日の想い 1405
観測史上を塗り替えるほどの降水記録を毎回見ている。線状降水帯なる言葉は且つてはなかった。天空が一定のラインで避けたかのように線状に猛烈な降水が襲ってくる。ノアの洪水のように天空のひび割れからいつしか天の底が崩壊して洪水となり、限られた高い山の頂きしか残らないような、そんな天災が迫っているかのようだ。猛暑と豪雨で煮え湯で焚かれるような日本列島は、日本人もろとも料理されて、知らぬ間に異なる環境圏と異なる魂と体を用意されていく。ここ数年の気候を見ても、もはや且つての日本の夏は遠い昔であるかのようにむせ返る夏を生きている。それはこれからも変わることはないのだろう。その環境圏の中で、願われて掴み取るべきものが必ずあるはずだ。「平和の主人、血統の主人」の中にも、人間の体温上昇を予知される個所があって、人間は36度から37度だけれども神様は53度を超える、すなわち神様が訪ねられる凹凸は53度を超えるとある。現代人に於いてどれほど熱く体を合わせるとしても平熱を超えるほどではないだろう。そうなると人間の基礎体温自体を上げる必要があって、その為の環境圏として気温上昇が考えられるのではないだろうか、というのが私の今の時点の仮説なのだが、これに関しては余り自信が持てない。しかし以前記したように暑ければ知情意の知という魂の活動はどうしても鈍くなるのであって、相対的に心情啓発に傾きやすい環境圏であるのはそうだと思う。科学的見地に立てば猛暑と豪雨で地の動きが活発になるのであって、この八月、特に地震は十分に注意する必要がある。
2025年8月11日月曜日
今日の想い 1404
8月6日、一瞬で十数万の生命が犠牲となり、それから一年を待たずに20万近くの犠牲に膨れ上がった。生命の犠牲は、生命は愛によって創造され育まれるので愛の犠牲と言い換えることもできる。とてつもない愛の犠牲が供えられた祭壇がここ広島と、そして長崎の地だ。しかしその惨状はこの世の愛の概念からは想像もつかない愛であり、その地獄絵図から何一つ愛と想起されるものなどない。悲惨な死の積み上げであり、それにも増して凄惨な生きる死の隊列だ。水を求めて彷徨った彼等の渇きは、日本の平和への渇きとして日本国民皆が覚えている。しかし押し付けられた憲法を平和憲法と呼び、平和教育と銘打って戦争と核へのアレルギーを植え付け、そして今日の記念日には平和平和の大合唱となる。平和を唱えることで平和になるという平和教を誰もが信じている。彼等の犠牲あっての今が、果たしてそれでいいのだろうか。それを平和の妄想に過ぎないと口にすれば平和を犯す輩として村八分にあう。人が肉体を失い、或いは奪われるのは彼等に限ったことではないし、誰であろうと一人残らず何らかの形で肉体を失う。彼等を特別視するのは原爆投下という人間の意志を介して、唐突に、更に大量に、強制的に受けた犠牲であり、その惨状からだ。しかしだからといって彼等を一括りに被害者として語るのは失礼だろう。彼等はその犠牲ありきで生を受けたのでもなければ、そこまでの道のりもそしてそこからの霊界に於ける道のりもひとつとして同じではない。神と神の一群の意志によって天宙が生成され人類が生成されたのなら、神々の子としての意思を与えられた人間一人もまた意志によって生き意志によって昇華する。自らの意志によって旅立つのでなければそれは天の意志による以外ないわけで、犠牲となった彼等も、そして残された者もその意志を謙虚に受け、その意味を謙虚に問い続ける。供えられた犠牲は消え去るのではなく昇華し、より位相の高い世界で天の意志を受けて生き続ける。人類が続く限り、これからも何らかの犠牲を供え続けるだろう。それは戦争かも知れないし天災かも知れないし、急に起こりうる些細な事故かも知れない。しかし過去の犠牲と同じ位置で、同じように悲しみ同じように怒り、そして同じように忘れ去ってはならない。犠牲が犠牲としての供えて与える愛を実らせるためには、地の事情を超えた真の意志が必要になる。
2025年8月3日日曜日
今日の想い 1403
2025年8月2日土曜日
今日の想い 1402
拉致監禁の被害にあった食口に対しては大変申し訳ないし心痛い想いもあるが、実はそういう事実があるという情報を伝えられてはいたものの、それが何名に及ぶのかとか、彼等がどういう状態にあるのかとか、その手口まで詳細に情報提供を受けた覚えはない。注意するようにと一言いわれただけで、教会上げての監禁されている食口を助けようとか拉致監禁問題に対して国に働きかけようとかという動きはなかった。それぞれの持ち場に関わっていれば見えないだけで当然あったと言われればそうかなあとしか言いようがないが、少なくとも彼等を救い出そうという熱い想いは伝わらなかったし教会全般にわたってそれはなかった。教会の空気として摂理優先であり、個々の問題には関せずだったのはそうだが、今思うとこの世の人権意識からして相当ずれ侵害されていたのは事実だろう。でも献身とはそういうものであり人権を超えた摂理的意識で歩んでいたわけだから当然のこととして受け入れてはいた。しかしその副作用のひとつとして他への思い遣りを失い、それが拉致監禁された食口達への無関心も助長させたはずだ。解散問題が浮上しそれと機を同じくするが如く、恰もその対応策として拉致監禁カードを差し出したように見受けられるから問題を複雑にし政治的なからくりを見てしまうけれども、この問題は随分以前からあったのであり、教会が愛の教会なら今ではなく最初から取り組むべきであった。献身生活自体が人権に光を充ててはいないものだから当然のこと拉致問題に対して人権という観点から解決しようなどとは思えなかった、というのが当時の状況だろう。人権で噛みつけば逆に噛みつき返されるのは分かっていて結果的に無視し続けてきた。拉致監禁問題は解散問題とは完全に切り離して、言うなら反教会の立場の拉致監禁された人も含めての反対運動に持っていくべきだ。