8月6日、一瞬で十数万の生命が犠牲となり、それから一年を待たずに20万近くの犠牲に膨れ上がった。生命の犠牲は、生命は愛によって創造され育まれるので愛の犠牲と言い換えることもできる。とてつもない愛の犠牲が供えられた祭壇がここ広島と、そして長崎の地だ。しかしその惨状はこの世の愛の概念からは想像もつかない愛であり、その地獄絵図から何一つ愛と想起されるものなどない。悲惨な死の積み上げであり、それにも増して凄惨な生きる死の隊列だ。水を求めて彷徨った彼等の渇きは、日本の平和への渇きとして日本国民皆が覚えている。しかし押し付けられた憲法を平和憲法と呼び、平和教育と銘打って戦争と核へのアレルギーを植え付け、そして今日の記念日には平和平和の大合唱となる。平和を唱えることで平和になるという平和教を誰もが信じている。彼等の犠牲あっての今が、果たしてそれでいいのだろうか。それを平和の妄想に過ぎないと口にすれば平和を犯す輩として村八分にあう。人が肉体を失い、或いは奪われるのは彼等に限ったことではないし、誰であろうと一人残らず何らかの形で肉体を失う。彼等を特別視するのは原爆投下という人間の意志を介して、唐突に、更に大量に、強制的に受けた犠牲であり、その惨状からだ。しかしだからといって彼等を一括りに被害者として語るのは失礼だろう。彼等はその犠牲ありきで生を受けたのでもなければ、そこまでの道のりもそしてそこからの霊界に於ける道のりもひとつとして同じではない。神と神の一群の意志によって天宙が生成され人類が生成されたのなら、神々の子としての意思を与えられた人間一人もまた意志によって生き意志によって昇華する。自らの意志によって旅立つのでなければそれは天の意志による以外ないわけで、犠牲となった彼等も、そして残された者もその意志を謙虚に受け、その意味を謙虚に問い続ける。供えられた犠牲は消え去るのではなく昇華し、より位相の高い世界で天の意志を受けて生き続ける。人類が続く限り、これからも何らかの犠牲を供え続けるだろう。それは戦争かも知れないし天災かも知れないし、急に起こりうる些細な事故かも知れない。しかし過去の犠牲と同じ位置で、同じように悲しみ同じように怒り、そして同じように忘れ去ってはならない。犠牲が犠牲としての供えて与える愛を実らせるためには、地の事情を超えた真の意志が必要になる。
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