拉致監禁の被害にあった食口に対しては大変申し訳ないし心痛い想いもあるが、実はそういう事実があるという情報を伝えられてはいたものの、それが何名に及ぶのかとか、彼等がどういう状態にあるのかとか、その手口まで詳細に情報提供を受けた覚えはない。注意するようにと一言いわれただけで、教会上げての監禁されている食口を助けようとか拉致監禁問題に対して国に働きかけようとかという動きはなかった。それぞれの持ち場に関わっていれば見えないだけで当然あったと言われればそうかなあとしか言いようがないが、少なくとも彼等を救い出そうという熱い想いは伝わらなかったし教会全般にわたってそれはなかった。教会の空気として摂理優先であり、個々の問題には関せずだったのはそうだが、今思うとこの世の人権意識からして相当ずれ侵害されていたのは事実だろう。でも献身とはそういうものであり人権を超えた摂理的意識で歩んでいたわけだから当然のこととして受け入れてはいた。しかしその副作用のひとつとして他への思い遣りを失い、それが拉致監禁された食口達への無関心も助長させたはずだ。解散問題が浮上しそれと機を同じくするが如く、恰もその対応策として拉致監禁カードを差し出したように見受けられるから問題を複雑にし政治的なからくりを見てしまうけれども、この問題は随分以前からあったのであり、教会が愛の教会なら今ではなく最初から取り組むべきであった。献身生活自体が人権に光を充ててはいないものだから当然のこと拉致問題に対して人権という観点から解決しようなどとは思えなかった、というのが当時の状況だろう。人権で噛みつけば逆に噛みつき返されるのは分かっていて結果的に無視し続けてきた。拉致監禁問題は解散問題とは完全に切り離して、言うなら反教会の立場の拉致監禁された人も含めての反対運動に持っていくべきだ。
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