人生は宛てのない魂の旅だろう。いつどこで何に出くわすか知らない道のりを、一生という期限付きで旅している。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだりしながら、ひとかけらの魂は肉身の輪郭を超え大きく球体に円熟していく。魂が肉身を超えてより霊的な背景を持ち始めると、嘆くに泣きながら笑いもし、喜ぶに笑いながら泣きもする。要するに己が魂を主管し、嘆くことを笑い飛ばす余裕を持ち、喜ぶことには申し訳なさを覚える謙虚さを持つ。霊的感性とは心情だ。天の心情圏に立つだとか父母の心情圏に立てと訓練されながら、実は霊界という心情世界の感性を育んできたのが私達だ。四大心情圏の親の愛としてひたすら与えてきても、子女が親の願い通りに育つとは限らない。子女が祝福を受け順調に家庭を持てば親としては誇らしい限りだろうけど、そうはならずにうな垂れる多くの家庭の現実がある。でもそれで親として注ぎ続ける愛が否定されるわけではない。どれだけ落胆し葛藤するとしても、いや落胆すればするほど、葛藤すればするほどに、それを乗り越えて親としての心情圏は深まっていく。この世には少なからず障害を持つ子の親がいる。祝福家庭にも多くいる。霊的にみるなら彼等は選ばれた存在だろう。一般的といわれる子供の親と違い、その運命的な境遇で呻吟せざるを得ない。そういう抱えきれない重荷を背負った人生に一度でも寄り添ったことがあるだろうか。また、では罪を犯した子供の親の心情に思いを寄せたことがあるだろうか。とても背負えるものでもないし、想像することすら難しい。しかし罪を犯したアダムとエバの親である神様には、心の痛みを覚えて生きる彼等は心情的には最も近い魂の在り様なのかも知れない。魂の旅人は、振り返って初めて様々な出来事の一つ一つの意味を悟っていく。その時は悟れなかった霊的背後の導きの声が聞こえていたことを知り、覚悟を決めるよう鬼になって迫っていた意志を知り、私が泣いていたのも実は共に生きて歩む背後の協助者が泣いていた事実を知る。私達は皆、魂の旅の道半ばだ。肉身を脱ぐ時まで自らの魂の在り様を見ることもなければ位相の高みにあるのかどうかすらわからない。そして生きるに必死でそれを問う意味もないだろう。しかし誰もが孤独な魂の道のりを歩んでいることは確かだ。だから私には貴方が必要であり、貴方には私が必要だ。その必要の関係性が家族を要求し、家族は氏族を、そして社会を、更には国を世界を要求している。親は子供の為に生きるなどとは敢えて言わない。それは親として当然の欲求に過ぎないからだ。親として子供の為に生きることは親としての当然の欲求だ。私の孤独な魂を知るようになれば、そして貴方の魂も孤独であることがわかれば、信仰的教条として為に生き犠牲を供えずとも、お互いの必要性を覚えて当然の欲求としての助けたい衝動が為に生きていることになる。
2025年10月29日水曜日
2025年10月27日月曜日
今日の想い 1422
高市政権が誕生した。施政演説を聞いて日本もやっとまともな国へと舵をきったのかと感慨ひとしおだった。我々の犠牲と引き換えに国が立つのであれば願ったり叶ったりだ。もしこの政権でもって解散は免除されるはずだと思っているとすれば、それは大きな誤算と言わざるを得ないだろう。そんな単純な話ではない。リベラルであろうが保守であろうが世論を敵にしては一歩たりとも進めないのであり、世論の最大の関心事は経済であって憲法改正でもなければましてや信教信条の自由でもない。新政権にとって最重要課題は物価高だ。それが解決されなければ政権は立ち行かない。教会解散は既に司法の手に委ねられており、もしトランプが教会を擁護する発言をするとしても前向きに善処しますで終わりだろう。食口はもはやこれ以上の解散回避だけに意識もエネルギーも消費するのではなく、教会が必要な食口への教会に代わる受け皿造りへとシフトすべきだ。それが宗教法人である必要もなく祝福家庭の交流を宗とした家庭連合の名を変えた家庭連合を作ればいい。家庭それぞれが教会であり礼拝が必要だと思うなら家庭礼拝、もちろん訓読もそれぞれ個人でやればいいし或る程度の縛りが必要なら家庭で訓読時間をもてばいい。それで信仰が保てないと思うなら所詮その程度の群れでしかない。食口が、特に日本食口が復帰すべきは主体性であり自我の確率だ。主体性のない信仰など信仰とは名ばかりの信仰と思わせた縛りでしかない。解散という外的圧力が働きはしたが、本物の主体的信仰を取り戻す絶好の機会だと私は思う。
2025年10月25日土曜日
今日の想い 1421
老父の死の門は確実に近付いている。それはわかるがそれがいつかはわからない。霊界からお迎えが来るのだろうけど、お迎えという霊界の事案は地上の存在にはわからない。それは霊的無知とは関係がない。ここ暫くは補助器具で室内の移動はしていて、食事も寝起きもトイレに行くのも、ゆっくりだが問題はなかった。しかしこの月になって急に食事が細り、殆ど口にせず、立ち上がるのさえ難しくなった。嫌がる父を無理やりに急かして係り付けのクリニックに連れていって診てもらった。食欲増進の薬を処方してもらって様子を見ましょうということだったが、その日の夕方には全く動けなくなってしまった。次の日医者に往診に来てもらい点滴で抗生剤を入れてもらい、それから毎日の看護師の訪問看護に代わった。そうこうするうちに熱が出て収まらず、結局は入院することになってしまった。大腸癌に肺炎も併発していてそう長くもなく、医者には以前からできるだけ家で看取りたいと申し出ていたのだが、昼夜問わず手がかかり介護する方が這う這うの体で、結局入院になって取り敢えずは安堵してしまった。熱が下がって退院するにしてもほぼ寝たきりだろうから、家で介護し看取るとなるとそれなりの覚悟がいる。今まで親だから当然面倒みるつもりでいたし、施設に捨てるように預ける家族を冷ややかな目で見ていたけれども、自分は何様のつもりなのか随分驕った考えだったと反省した。生きるのも大仕事だが、死への参道も本人にしても周りの者にしても大仕事だ。霊界の事情からすれば地上での苦労が多ければ多いほど多くの霊的実りをもたらし霊界の環境圏はよくなるはずだ。もちろん誰も地上生で苦労したいとは思わない。だから否応でも苦労せざるを得ない人生を送れるとすれば、霊的に見れば果報者だといえる。苦しい思いをしなければ死ねないのだろうかと老父に聞かれるたびに、それが有難いことだと思えるようになると言い返すと、訳のわからんことを言うなと怒られる。
2025年10月14日火曜日
今日の想い 1420
一人は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は社会の為、社会は国の為、そして国は世界の為、しかし私達はいきなり超越して一人が世界の為に歩んできた。その「為に生きる精神」はすばらしいけれども社会の周囲で生活の中で触れる人々からすれば何をやっているんだろうということになる。この教会長の言葉は筋が通っているように見えるけれども、食口に対して買いかぶり過ぎのように思える。果たしてそれほどに食口の精神性は高いのだろうか。ただ仮の生きる目的を与えられて使命に燃えやすい幼子の信仰に火を付けられたに過ぎない。というのは氏族復帰を願われて歩み始めた時、親族氏族の為だと言いながら意味すら分からない聖酒を飲ませて祝福したと自己満足だけで終わっている。氏族復帰はそれだけのことで終わり氏族の為にしてくれたなんて氏族の誰も思ってはいない。そして多くの食口は教条主義と数値目標達成以外のことは考えていない。これから私達本来の為に生きる歩みを周囲から展開すれば教会に対する世間の目は変わってくるという、そういう意味合いのことを語られていたがどうしてそこまでアベル的(?)になれるのか不思議でならない。摂理要員として駆り出された若い教会員は山ほどいたけれども、その中から枯れない信仰に根差した者がどれだけいるだろう。淘汰されて、更に淘汰されて、それでも今残っている全ての食口が心情相続された天の子女としての基準にあるとは思えない。それでも残れば居残れただけ真の神様に繋がる確率は高まるわけだ。その意味では幼い信仰であっても、ひたすら掴んで離さず生涯を終えることも、何らかの形で天が覚えて下さるのかも知れない。しかし救援摂理は私達の基準の低さ故に更なる紆余曲折を経ていくのだろう。けっしてここ数年で世界が復帰されることなどありえない。
2025年10月10日金曜日
今日の想い 1419
霊は天から、肉は地からであり、人間存在は霊肉の存在であることはそうだが、霊肉一体の結実として魂があり、人間存在はその魂の存在だというのが理解しやすい。人間始祖は神の元にあったが、すなわちより神に近い、魂存在というよりより霊的存在だったが、ルーシェルの誘惑によって霊的存在から肉的存在に堕とされた。よって魂は今日までの長い気の遠くなるような蕩減歴史を通して、ほぼ肉的な魂から天が関与できる霊肉の魂へと復帰されてきた。霊的実態を正しく捉えることもできない立場で霊的堕落と原罪という霊的罪からの肉的罪を理解することなどできるはずもない。食口や子女に対して罪を犯したとか堕落したとかというのは、信仰的戒めを守れず条件を失ったということは言えるとしても、原罪ある立場に堕ちたとは言えない。子女様が信仰的戒めを犯したとて、悪なる結果故に原因である御父母様が勝利されたとは言えない、などと批判するのは、霊的なことがわかっていない稚拙な原理認識と心情に及ばない感情でしかない。じゃあお前はどんな非倫理的行動を子女様が犯したとしても真の子女として擁護するのかと問われれば当然否定する。原罪が清算されていようがいまいが社会的に冒してはいけないものはいけないのであり、それ相応の内外の穴埋めは必要だろうし、原罪のない者は社会的倫理を犯すことはないなどというのは霊的認識に欠けた信仰者の幻想でしかない。信仰による恩恵から未だに遠い二通りの食口がいる。霊界や霊が見えたとか見えると吹聴する、霊を唯物化する食口、原理を地上の感性だけに頼って平面的にしか認識できていない食口、彼等は霊界の住人になったとき相当の戸惑いを覚えるだろう。