老父の死の門は確実に近付いている。それはわかるがそれがいつかはわからない。霊界からお迎えが来るのだろうけど、お迎えという霊界の事案は地上の存在にはわからない。それは霊的無知とは関係がない。ここ暫くは補助器具で室内の移動はしていて、食事も寝起きもトイレに行くのも、ゆっくりだが問題はなかった。しかしこの月になって急に食事が細り、殆ど口にせず、立ち上がるのさえ難しくなった。嫌がる父を無理やりに急かして係り付けのクリニックに連れていって診てもらった。食欲増進の薬を処方してもらって様子を見ましょうということだったが、その日の夕方には全く動けなくなってしまった。次の日医者に往診に来てもらい点滴で抗生剤を入れてもらい、それから毎日の看護師の訪問看護に代わった。そうこうするうちに熱が出て収まらず、結局は入院することになってしまった。大腸癌に肺炎も併発していてそう長くもなく、医者には以前からできるだけ家で看取りたいと申し出ていたのだが、昼夜問わず手がかかり介護する方が這う這うの体で、結局入院になって取り敢えずは安堵してしまった。熱が下がって退院するにしてもほぼ寝たきりだろうから、家で介護し看取るとなるとそれなりの覚悟がいる。今まで親だから当然面倒みるつもりでいたし、施設に捨てるように預ける家族を冷ややかな目で見ていたけれども、自分は何様のつもりなのか随分驕った考えだったと反省した。生きるのも大仕事だが、死への参道も本人にしても周りの者にしても大仕事だ。霊界の事情からすれば地上での苦労が多ければ多いほど多くの霊的実りをもたらし霊界の環境圏はよくなるはずだ。もちろん誰も地上生で苦労したいとは思わない。だから否応でも苦労せざるを得ない人生を送れるとすれば、霊的に見れば果報者だといえる。苦しい思いをしなければ死ねないのだろうかと老父に聞かれるたびに、それが有難いことだと思えるようになると言い返すと、訳のわからんことを言うなと怒られる。
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