2025年10月29日水曜日

今日の想い 1423

 人生は宛てのない魂の旅だろう。いつどこで何に出くわすか知らない道のりを、一生という期限付きで旅している。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだりしながら、ひとかけらの魂は肉身の輪郭を超え大きく球体に円熟していく。魂が肉身を超えてより霊的な背景を持ち始めると、嘆くに泣きながら笑いもし、喜ぶに笑いながら泣きもする。要するに己が魂を主管し、嘆くことを笑い飛ばす余裕を持ち、喜ぶことには申し訳なさを覚える謙虚さを持つ。霊的感性とは心情だ。天の心情圏に立つだとか父母の心情圏に立てと訓練されながら、実は霊界という心情世界の感性を育んできたのが私達だ。四大心情圏の親の愛としてひたすら与えてきても、子女が親の願い通りに育つとは限らない。子女が祝福を受け順調に家庭を持てば親としては誇らしい限りだろうけど、そうはならずにうな垂れる多くの家庭の現実がある。でもそれで親として注ぎ続ける愛が否定されるわけではない。どれだけ落胆し葛藤するとしても、いや落胆すればするほど、葛藤すればするほどに、それを乗り越えて親としての心情圏は深まっていく。この世には少なからず障害を持つ子の親がいる。祝福家庭にも多くいる。霊的にみるなら彼等は選ばれた存在だろう。一般的といわれる子供の親と違い、その運命的な境遇で呻吟せざるを得ない。そういう抱えきれない重荷を背負った人生に一度でも寄り添ったことがあるだろうか。また、では罪を犯した子供の親の心情に思いを寄せたことがあるだろうか。とても背負えるものでもないし、想像することすら難しい。しかし罪を犯したアダムとエバの親である神様には、心の痛みを覚えて生きる彼等は心情的には最も近い魂の在り様なのかも知れない。魂の旅人は、振り返って初めて様々な出来事の一つ一つの意味を悟っていく。その時は悟れなかった霊的背後の導きの声が聞こえていたことを知り、覚悟を決めるよう鬼になって迫っていた意志を知り、私が泣いていたのも実は共に生きて歩む背後の協助者が泣いていた事実を知る。私達は皆、魂の旅の道半ばだ。肉身を脱ぐ時まで自らの魂の在り様を見ることもなければ位相の高みにあるのかどうかすらわからない。そして生きるに必死でそれを問う意味もないだろう。しかし誰もが孤独な魂の道のりを歩んでいることは確かだ。だから私には貴方が必要であり、貴方には私が必要だ。その必要の関係性が家族を要求し、家族は氏族を、そして社会を、更には国を世界を要求している。親は子供の為に生きるなどとは敢えて言わない。それは親として当然の欲求に過ぎないからだ。親として子供の為に生きることは親としての当然の欲求だ。私の孤独な魂を知るようになれば、そして貴方の魂も孤独であることがわかれば、信仰的教条として為に生き犠牲を供えずとも、お互いの必要性を覚えて当然の欲求としての助けたい衝動が為に生きていることになる。

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