2025年10月14日火曜日

今日の想い 1420

 一人は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は社会の為、社会は国の為、そして国は世界の為、しかし私達はいきなり超越して一人が世界の為に歩んできた。その「為に生きる精神」はすばらしいけれども社会の周囲で生活の中で触れる人々からすれば何をやっているんだろうということになる。この教会長の言葉は筋が通っているように見えるけれども、食口に対して買いかぶり過ぎのように思える。果たしてそれほどに食口の精神性は高いのだろうか。ただ仮の生きる目的を与えられて使命に燃えやすい幼子の信仰に火を付けられたに過ぎない。というのは氏族復帰を願われて歩み始めた時、親族氏族の為だと言いながら意味すら分からない聖酒を飲ませて祝福したと自己満足だけで終わっている。氏族復帰はそれだけのことで終わり氏族の為にしてくれたなんて氏族の誰も思ってはいない。そして多くの食口は教条主義と数値目標達成以外のことは考えていない。これから私達本来の為に生きる歩みを周囲から展開すれば教会に対する世間の目は変わってくるという、そういう意味合いのことを語られていたがどうしてそこまでアベル的(?)になれるのか不思議でならない。摂理要員として駆り出された若い教会員は山ほどいたけれども、その中から枯れない信仰に根差した者がどれだけいるだろう。淘汰されて、更に淘汰されて、それでも今残っている全ての食口が心情相続された天の子女としての基準にあるとは思えない。それでも残れば居残れただけ真の神様に繋がる確率は高まるわけだ。その意味では幼い信仰であっても、ひたすら掴んで離さず生涯を終えることも、何らかの形で天が覚えて下さるのかも知れない。しかし救援摂理は私達の基準の低さ故に更なる紆余曲折を経ていくのだろう。けっしてここ数年で世界が復帰されることなどありえない。

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