韓国のとある牧師が立ち上がった。やっと立ち上がった。彼の叫びが個人的感情や欲心からの言葉ではなく父母を想う心情に即したものであることは、生涯を通して歩んできた信仰路程、その上で相続した天の心情圏に立つ者であればその琴線に触れるはずだ。彼は正しいか正しくないかの論理に立っているのではなく、父母を想う心情に立っている。原理的観点から独生女信仰はおかしいと言っているのではなく、父母様への想いに触れればこそ改めるべきだという心情圏に立った言葉だ。御母様に対して進言できなかった自分であることを悔い改めている。信仰を通して心情を相続し、心情圏に立てば、未だ信仰にのみ殉ずる者からは位相が異なっている。心情を相続した者のみが真の愛の何たるかを求めることができるし触れることができ、そして真の愛に立つ。教権に立つ者が彼を無視しようが辞職させようが、天は真の愛の御方であるために当然彼の側に立っている。彼の、己が位置を捨て去ってもという犠牲と確固たる意志、見上げるそれに比して教権側がどういう犠牲と死生決断を供えているのか。私には見えない。祈祷のカタチと時間だけを食口に教育し、シュプレヒコール以外の行動に及ばない祈祷が真の祈祷といえるのかどうか、祈祷そのものが目的化してしまった教会の実情は天心苑の名を地に堕としている。
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