地獄の在り様を延々と教えられてどうなって欲しいのだろうか。こんな地獄には行きたくないという恐れの感情のみで魂を満腹にさせると、そんな人間は、腹が異様なほど膨れた餓鬼の様相を想像してしまう。愛で魂を満たす霊人体にはなれなくて、内面に限ったことであっても己のことにのみ執着するという偽りの似非愛で魂を満腹にさせ、満腹の腹が割けて恐れがウジ虫となって這い出てくる。後天開闢時代という光の時代に、敢えて恐れで導こうとする意図が私には全くわからない。食口達の心霊はそんな内容に相対して、右往左往するほどに霊的に暗くて見通せないのだろうか。それは食口を見くびり過ぎてはいないだろうか。少なくともアボジのみ言葉にそんな地獄の様相を延々と述べられた言葉を耳にしたことは一度もない。しかしそういう私も恐れが不安と化して眠れない日々を送ってしまった。感謝に満たされ生かされて今の私があるのに、不安の連鎖で魂は充満し、それがいつ爆発するとも知れないという、私自身が地獄を這っていた。人のことをとやかく言える立場にはない。それでも私は御父母様によって天の祝福を戴いている。すなわち祝福という接ぎ木で天の血統圏に繋がる霊を種として、或いは苗として戴いている。それを如何にして育てていくか。確かに信仰は基台だから信仰は必要だろう。でも信仰基台の上で愛を授け受けする自分にならない限り基台の意味はない。信仰だけでは霊は育たない。そして愛は確かに為を思い為に生きる生活ではあるけれども、自我を否定して蔑ろにして愛に生きる私とはなれない。愛の発光体となるためには自分自身を本質的に愛して信頼し、褒めて慰労し、貴方はそんなところでくすぶるほど神は見捨ててはおられないと叱咤し、理想を見失わない自分ありきとならなければ為に生きるという言葉はどれほど空しい言葉だろうか。霊界はそれぞれに背負って生きているのであり、それぞれの背負った霊界に住まうことになる。天国を背負っていれば天国に、地獄を背負っているなら地獄に、そんなイメージされたような地獄を想起している時点で背負い子の中に敢えて地獄を組み入れている。