2024年12月17日火曜日

今日の想い 1350

 暗号資産が話題になっている。資産にはいろいろあって不動産やコモディティ等の実物資産、株式を含む債券や国債、そして預貯金を含む通貨と生命保険、等々の金融資産と分けられるが、暗号資産の分類となると一応金融資産ではあるけれども、しかし債券のような貸方が存在しないという点では通常の金融資産とは異なっている。表されている暗号資産の価値を今までの資産価値測定のように測っている訳ではなく、或る意味無を有と信じる、更に買うものがいるしいつでも売れるから信じるという信仰的資産といっていいのかも知れない。上がってきた要因は明らかに爆発的というか異次元的通貨増発に依っているからだ。それは債券であれコモディティであれ同じ理由なのだが、通貨が爆発的に増えるから暗号通貨にも回ったのであり、回って数字が増えていくものだから更に買い回すということでいつしか暗号通貨が暗号資産へと位を上げていった。最近次期大統領となるトランプが暗号通貨、暗号資産に対して、国としても資産に組み入れるというような肯定的意見を配信したものだから爆上がりしている。しかしトランプを侮ってはいけない。彼はビジネスの分野でも相場観がモノを言う不動産王であって手代の相場師だ。もし彼が神に選ばれた人物だとしても言葉をそのまま鵜呑みにすべきではない。更に言うと、彼にはイーロンマスクというこれまた天才肌の経営者をも側近に置いている。どうにもならない莫大な米国負債をどうするかという彼の立場に立てば、暗号資産を高みの極にまで釣り上げておいて、一瞬で売り浴びせ保有者の資産を奈落の底に堕とし、その差益で負債を減らすことだって当然考えているはずで、何を仕出かすかわからないのがトランプという名前の通りの人物だ。ドル通貨の引き下げであったり、新たな金兌換のトランプドルだったりと方策としてはいろいろ考えられるが、確実に何かは起こすはずだ。暗号通貨はこのシステムを維持するためこれほどの電力を消費するシステムは他になく、何かの災害で電気が使えなくなれば何の役にも立たない。それを言えば、手持ちのコモディティ以外のITで繋がっているあらゆる資産に対して言えることではある。

2024年12月13日金曜日

今日の想い 1349

最近公開された配信映像、脱北家族のドキュメンタリー映画を見た。家族五人で脱北を試み、鴨緑江の源である百頭山を超え、韓国で脱北援助している牧師によって中国青島、ベトナムと経由し、ラオスの密林を超えてメコン川を渡り、最後に民主国タイの警察に補導されるという長い過酷な路程を経て最終的に韓国に亡命する。その脱北家族と並行して、既に脱北している女性がその息子を脱北させる為にブローカーを通して連れてくるという伏線を追っているのだが、その息子は中途で捕まり拷問の末、死と隣り合わせの収容所送りになってしまう。感想として先ず民主主義国家では想像もできない、食べ物もままならない過酷な人生を送る人々が、飽食で莫大な廃棄処分をしている社会と隣り合わせで存在しているという現実。同じ地上に生まれながらこれほどの差は一体何の因縁によるものかという疑問。全ての人々が幸せな生活を送ることを願う神だろうに、これほどの差が存在している現実を突き付けられると私の親なる神の概念すら危うくなってしまう。果たして因縁と蕩減でこの現実を説明できるものなのだろうかと思う。過酷な中で生き、或いは死に、その壮絶な人生から彼等は何を受け取るのだろうか。そんな中でも、或いはそんな中だからこそ神に出会えることがあるのだろうか。この映像を見て、私は生きるに良いくじを引いたという認識だけで霊界に赴くなら、大変なしっぺ返しを受けかねないと思っている。いつも記しているように、この世とあの世が逆説であるなら、国そのものが収容所と化した中で魂の歩みをする彼等が、霊的に受け取る霊的自由の本質に比べれば、平安な社会で信仰による霊的自由など絵に描いた餅に過ぎないだろう。脱北した家族五人の安らかな笑顔より、北韓の息子を呼び寄せる計画を立てながら失敗し、息子を更なる絶望的境遇に結果として陥れてしまった母親の涙と苦悩が強烈な印象として私の胸に残った。このドキュメンタリー映像の作者は、視聴者が受け取らざるを得ない天国と地獄を敢えて意図してのことだったのだろうか。

今日の想い 1348

 一年などまさしく瞬く間のことだ。60を超えると目に見えて老いが追い付いて来る。この齢になって思う。どうして私は人間を生きているんだろうと、、。なんで人間に生まれることを選んだ?人一人生きる為に莫大なエネルギーの消耗が必要なのに、それだけの犠牲を強いて果たして神が受け取れる果実はあるのだろうか。天宙に寄与できる人類だろうか。人類が創造理想のままに復帰され完成し役目を終えれば、もはや人類は必要なくなり霊的存在としてのみ天使界の一つの位相として存在するのだろうか。それとも永遠に完成を見ないかのように、微々たる一歩を踏みしめながら人類の時は流れ続けるのだろうか。アメリカは新政権の布陣が着々と進んでいるようだが、彼は剣を投げ込むのであって経済は勿論のこと全てにおいて混乱が起こることは間違いない。けっして新政権によって皆がハッピーになるソフトランディングとはならない。アボジが米国摂理に対してどれほど失望されたか、アメリカがもはや衰退するというのがアボジの結論であるように私はそれを信じている。DSによってハチャメチャになったのはその通りだが、DSという悪魔ではなく飽くまで既得権益にしがみつく政策指向者達の群れだ。では一般市民が既得権益に全く預かっていなかったかというとそうではない。巡り巡って一般市民にも何らかの既得権益に与っている。一般市民だって今まで認識しなかったが受けていた甘い汁を新政権によって奪われることになる。国を想い国力を支える為になど誰も思ってはいなかった。自分と家族の生活だけを想っていた。その頭と態度を変え国を想わなければ不満続出で新政権は倒れてしまう。今までアメリカはどれほど問題山積みであっても最低限ドルが基軸である恩恵に与っていた。それなりに真面目に働き生活すれば衣食住に困ることはない。要するにドル基軸という既得権益の甘い汁を飲み続けてきた。しかしこれからはドル一局体制で世界は動かない。米国市民は負債を増やせば増やすほど成り立っていた金融経済を奪われ、実体生産の力をつけなければ生活できない時代に突入している。米国摂理が失敗して以降、アボジは明確な世界復帰戦略の話はされなかった。少なくとも私と私が得られる食口関係から受け取ることはなかった。世界戦略である実体摂理が明確でないのに、私達が生きながらえて全体として為すべきことはこの期に及んであるのだろうか。ないのであれば、いやわからないのであれば摂理推進の組織など意味はない。御母様に従うのは吝かではないにしても、世界復帰戦略である実体摂理の話はされない。それとも中心的位置にある者達にはわかっていて着々と摂理は進められているのだろうか。

2024年12月3日火曜日

今日の想い 1347

私がどう感じてどう思うのかを観察する、という主観に先ず立つことだ。私の内面をほっておいて朝起きて夜寝るまで周囲にのみ意識を持ち続けるのではなく自分の内面に意識を持つ。この主観と主体的意識を蔑ろにされたままだと、客観という鏡でしか自分を映せず受動的私から抜け出せない。主観という鏡で周囲を先ず見るということが主体的で能動的な自分を生きることになる。そうすると周囲の環境は今までとは全く異なった、霊的に生きた様相を呈するようになる。先天から後天の意味は、客観から主観に、受動から能動に、横的な周囲に自分を合わせるのではなく縦的な自分の内面に周囲を合わせる、そして地動説から自分を中心とした再生天動説に転換していく。地動説では私は天との関係性をつかめない。宇宙の中心がどこにあるかさえもわからない。広大無辺な宇宙の片隅の太陽系であり、そのまた一点の地球であり、その表面で漂うしかない私だ。しかし再生天動説は中心は私だ。私を中心として地球が昼夜を交代させ、私を中心として四季が繰り返され、私を中心として黄道十二宮の環境圏が備えられている。そして大切なのは私が中心位置に立って初めて霊界の本質に入っていける。霊界があると信じているだけでは霊界を実感的に捉えて霊界生活を為しているとはいえない。信仰とはまだ見ぬ事実を掴む為の方便であって、掴んでしまえばそれに対する信仰はもはや必要はない。神様はどういう方だとか、天国や地獄がどういうところだとか、そんなアベルの話を鵜呑みにしたままで神様を実感でき霊界を実感できるならそれは或る霊的対象によって思わされているにすぎない。霊的感性と霊的理解は主観から良神を見出して、内的に尋ね内的に旅をし冒険しながら築いていくものだ。失った霊的感性の復帰は、復帰摂理が再創造摂理であるように再建設していくものだ。

2024年11月27日水曜日

今日の想い 1346

 日本に帰国してはや5年が経つ。生活の変化としてアメリカでは殆ど見なかったテレビ放送だが日本では見る機会が多い。世話してる親が見るに合わせても見るし、妻もクイズ番組が好きで一緒によく見ている。日本はクイズ番組が実に多い。見ると東大や有名大まで出ながら参加しているタレントも多い。IT時代であって、スマホでもパソコンからでもいくらでも知識は得られるだろうに、それでも未だに頭に叩き込む知識偏重が日本社会だ。知識で有名大に入れ、知識で大手に入れ、その為に教育も知識偏重だ。中高6年間英語を学び、覚えるイディオムや単語数は英語圏に引けを取らないが、しかしそれでも英語はしゃべれない。日本の英語教育は知識のための、すなわちテストやクイズの為の教育であってコミュニケーション教育ではない。妻のことを話せば怒られるが、英語会話ができないからといってアメリカに居ながら英会話の本を勉強し、英会話教材を手に入れて学んでいた。話そうとすればいくらでも話せる環境なのにおかしいだろうと説明しても固い頭は納得しなかった。英語の会話であろうと韓国語の会話であろうと、会話は所詮会話しながら身に付けるものだ。日本での英語の成績など関係なく話せば話すほど上達する。日本の教会の信仰教育にも同じ問題があって、訓読時間を決めて訓読するのはまだしも、み言葉の写経までするのは日本の机上教育に大きく影響を受けている。もちろんみ言葉を知識量として叩き込んでもみ言葉の本質は受け取れないけれども、机に座って学習の恰好だけ取ってもみ言葉を学んだ気持ちになるだけだ。1頁を写経している間に1巻くらいは目を通せるし、み言葉の全体と流れを先ず捉えることの方が優先されると思う。

今日の想い 1345

 おそらく今の食口達に、聖霊に満たされた体験や神霊が降りた体験はないのだろう。昔あったという食口もいるかも知れないが、遠い昔でその感覚を忘れてしまったのだろう。清平で身体の癒しに与ったが、それは外的なものであってそういった内的体験だとは思わない。聖霊体験は超感情体験であり、神霊体験は神の叡智が下る超思考体験だ。聖霊体験をもって信仰の本質である母の位相に入るのであり、神霊体験は聖霊体験を積み重ねていく中で神とひとつになる父の位相に入っていく。教会が神霊協会と冠しながら神霊が降りない神不在のままの教会であるなら、教会の摂理的意義は失っていかざるを得ない。最近の日曜礼拝に参加することで聖霊神霊体験を受け取れる自分と意志を確認できるだろうか。自分の中にそれらに向かう内的意志を備えて内的体験を増やすことで、私に真の母が共にいて真の父が共にいる、即ち真の父母を内在する私になれる。教会の教えを守り願いに応えるべきなのは入り口に過ぎないのであって、それを目的化されていないか、或いはしていないかを自分に問うてみる必要がある。確かに願いに応えなければならないとひた走りに歩んできた。一世であればアボジと接した機会も多く、いろんな思い出話を語ることもできるだろう。しかしそういった体験がそのまま内的体験とはならない。またどれだけ夢にアボジが現れたとしても、それもそのままで内的体験をしたとは言い難い。感情を超えた感情を受け取り、真理を超えた神の叡智を受け取る、という霊的体験こそ信仰方針とすべきだ。献金や伝道が無意味だというつもりはない。献金活動も伝道活動もそういった体験を得る活動とすべきだ。そういう体験に繋がってこそ本当の献金であり伝道だと思う。

2024年11月21日木曜日

今日の想い 1344

久方ぶりに訪米以前にお世話になった一八の先輩夫婦に会ってきた。こちらは年相応に薄くなり体形だって以前の見る影もないが、その先輩は重ねた齢にしては若々しく、90年代当時と差ほど変わってない。時間も限られていたしそれほどのめり込んだ話はしなかったが、私が思っている教会の状況や摂理の把握とは随分ちがった認識を持っている印象は受けた。解散請求に対してもっと戦う姿勢を持つべきではないかとの問いに対して、アボジは反対する者に対しては勝手にやらせておけというスタンスだったし御母様も二世三世に力を入れておられて問題に対してどうこうしろとは言われないという回答だった。周りは見えないか無視して御母様にだけ意識を向けるのであり、起こったこと、起こっていることに対しての個の意見というものはない、或いは持たない。勿論私がそう発言すると相手もいい気はしないだろうから言いはしなかったがそう思った。今は食口達が昔のように同じ考えで同じ思いで同じ活動をしている訳ではない。しかし食口は同じであるべきという思いが未だに抜けずにいるものだからそれ故に齟齬が生じてしまい、違いを受容できないセクトが発生する。教会が分裂したのはみ言葉の解釈の問題ではなく、違いを受容できない心の狭さから分裂している。私は御母様と御母様に従う教会を否定しないし、H1H2であっても否定はしない。否定しないがのめり込みもしない。教会の論理解説と信仰指導に忠実な食口は忠実な食口で彼らなりの使命があるはずだ。しかし忠実に見える食口であればあるほど、一般社会には独善的色合いが濃くみえる。その状態も日本の他の何々村と同じで、中心者が何を言おうが受け入れるのが当然、右に倣えが当然という日本特有の自我圧迫の段階から抜け出せないように思う。