2024年10月4日金曜日

今日の想い 1329

人類を救うと大真面目に口にする。救いの意味が本当にわかっているのか大風呂敷を広げる。人類全てを祝福することで救いの摂理は全うすると信じている。御父母様を真の父母として受け入れ祝福を授かることで人類の平和は訪れるのだろうか。私達がイメージする理想世界はアボジが理想とされた世界と同じだと断言できるだろうか。私達が大言している一方で、人類はここに来て明らかにかの大戦以降最大の世界戦争勃発危機に瀕している。食口達は、教会は反社だと世間からいわれ差別的扱いを受けていることに沈んでいるけれども、国が実体戦争に巻き込まれて流浪の民とならざるを得なくなった状態を思うと、行動自粛して静かに目立たず隠れている場合ではないだろう。本当は国家危機、世界危機の今こそトーンを数段上げて叫ぶ時だ。教会は平準化によって大衆が受け入れる大乗宗教になるのは仕方のないこととしても、だからと言ってアボジから直接指導を受けた肝いりの一世が大衆化してどうするのだろう。食口の摂理観の欠如が今の今こそ憂える状況は過去にはない。アボジの為に死ねるならアボジが切実に願われた摂理に生命を賭して当然だと思うけれども、原理運動当時にはあった摂理観も覇気も今はない。壇上に立つ一世も二世にしても、この信仰を持って幸せですとか感謝ですとか、そんなことはいいから、国を憂い国の為に生命をかける気概を魂の言葉で国民に投げかけ訴える、そんな食口の一人すら果たして日本にはいるのだろうか。

2024年9月24日火曜日

今日の想い 1328

創世記に「我々の形に我々にかたどって、」とあるように神を複数形で表されているが、創造を終えられると神は主なる神という表現に変る。原書の創世記には二通りの神表現があり、エロヒム(神々)という複数形の神とヤハウェ(主なる神)という一人称の神で分けて記されている。エロヒムが夜の神様でありヤハウェが昼の神様ではないかという記述を載せたことがあるが、その仮定は置いておくとして、神という存在が一人称を超えた(勿論、人ではないので一人称という言い方自体おかしいが、)、いや数理を超えた存在であることも確かだ。そうなると教会がイメージしている、というかさせている一なる神様だけでは捉えられない部分も多くあって、それでいてこれからの摂理を牽引できる立場にあるのかどうかという疑問が湧いてくる。先天の蕩減時代であったから教会の神様で摂理を引っ張ってきた訳であって、蕩減を超えた後天時代は神の概念を変えない限りお役御免になりかねない。時代は変わったのに私達が変われないとなると歴史の渦の中に埋もれて消えてしまう。もはや神様が耐え忍んでばかりおられる神様ではないのに、忍従の一語で通すのが当然だというのは通らない。訴えるべきであり、打って出るべきであり、摂理を進めるに戦略的でなければならないし、対社会では反社に仕立てられた立場で策略もあって当然だろう。如何わしい謀略だって必要かもしれない。反社というレッテルを貼られた故の開き直りの吐露ではないけれども、ここまで追い込まれながら神様は向こう側の神様でもあられるなどと相手に寄り添い自滅的素振りを見せ、恰もそれが打たれることを良しとする神様を戴く私達の姿勢だと言わんばかりに言葉に酔っているのは現実逃避だ。神様は慈愛や嘆きの神様であるだけでなく、怒りの神様でもあり裁きの神様でもあり創造の神様であると同時に破壊の神様でもある。それは人間の魂の千変万化の在り様からみてもそうで、神の単純なイメージ化はできない。にも拘らず食口の神と霊界のイメージは呆れるほど単純だ。今の世の暴れ狂う自然を見ていて、またアメリカ一強が崩れている現実を見、金融資本主義が行き着く先まで行ってしまった現状を見て、そして多様性と言われて根底が覆される社会状況はそれこそ頭に角が生えたり男女の器官を一個体に持てたりするような、そんな中でヤハウェの権威をエロヒム連合に委託しなければ統治できない地球になっている。もはや献金や旧態依然の伝道では摂理に対して何の影響力も持つことができない。

2024年9月11日水曜日

今日の想い 1327

 二世教育は原理を教えて完結するわけでも教義箇条を教えて良しとすることでもなく、自分の中の良心の存在を見出せるようにすることであり、良心を中心とした主体的な人生になるよう導くことだ。乱暴なことをいえば敢えて信仰に導く必要もない。子供は親の生き様を見ているのであり、教えずとも信仰故の人生観を親を通して見せている。一世の私達には大きな誤解があった。み言葉の力を恰も呪文の如くに捉えていた。少なくとも私はそうだった。み言葉さえ入ればこの道のすばらしさを理解すると思った。しかし二世の時代は一世の時の時代的背景や社会文化とも違うし、それ以前に願い願われて地上に生まれでた意味から異なっている。今の若者は今の時代だから生まれ出ているわけで、彼等は決して私達の時代に生まれることはない。先天時代という受動的時代だからみ言葉を与えられて受け入れる内的態度で良しとされたが、後天時代を生きるには能動的時代として、与えられて従うのではなく自ら掴んで主管していく内的態度が要求されている。子女様に於いてもそうだが一世から見れば教えに反する行動をたとえ取ったとしても、それを見て裁いたり諭したりして彼等が成長するのではなく、あくまで彼等の判断に委ねるしか成長の方策はない。親として接するとすれば彼等の良心を引き出すことであり、良心を主体として立てるよう導くことだ。一世の私達は御父母様から祝福の顕現を与えられている。御父母様が外的には放蕩三昧に見える子女様でさえ祝福されたことを思えば、敢えて教義の枷に当てはめて祝福を与える必要もない。他の食口が訝しく思うなら思わせておけばいいし、話を合わせておけばいい。今回の問題で多くの食口が理解したように、主体的能動的に道を切り開いていく二世が願われているのであって、私達一世の教条的枷にはまる二世では後天時代を切り開けない。

2024年9月10日火曜日

今日の想い 1326

 信仰二世もそれぞれ様々な環境があり歩みがあって今に至っている訳で、十把一絡げに括ってしまうのは違うだろう。さらに、二世の殆どは教会の信仰を持てないか或いはどっちつかずで、信仰二世の括りにも入らない者達の方が圧倒的に多いはずで、彼等にしても十人いれば十人の異なる環境があり歩みがあり、そして事情がある。信仰している側から見れば、落伍者だという認識を先ず持つのだろうし、彼等自身もまたはみ出している自覚はあるのだろうが、信仰のあるなしの基準等というものはもともとない。信仰という言葉自体が主観的言葉なので、本人があると言えばありないと言えばない、そんな言葉だ。ある意味宗教的なものは信じないと言うのも、信じないという信仰だと言えば言えてしまう。信仰二世(一世は当然だが)だと自覚する者はそれなりの神との出会いや体験を持っているはずで、だから信仰を継続している。しかし信仰を継続しているからOKなのではなく、その神との出会いや体験に甘んじている、或いはしがみついているのが問題で、そこに内的霊的成長はない。彼等が成長しなければ神体験を持たない位相の低い二世達は尚更成長できない。二世の一部が神体験を持っていて、多くの二世はそれがなくて教会との距離を取っているのであれば、自分達は選ばれた、すなわち神体験を持てずに距離をおく多くの二世達の救いの責任を引き受けているとは思わないのだろうか。信仰が自分と自分の周りの一部の幸せ事で終結している自覚があれば、神との出会いがありながらも自分は神の願いに応えていないという負債を覚えるだろうし、これ見よがしに幸せ自慢と受け取られるような証しはしない。それもこれも二世教育を間違えた一世達の責任であり、どれほど献身しようが献金しようが御国を仰げないし世間に踏みにじられて当然だろう。摂理観を正しく受け取れば天国へ行くための光を受け取る惑星的信仰ではなく、地上天国を築くために宗教を超える超宗教的な恒星存在になってこそアボジを担いアボジと共に摂理を推進している。

今日の想い 1325

 昔まだ小学校に上がるか上がらない頃、近くの停留所に派手なポスターが貼って合って、こんな寂しい田舎にとても似つかわしいとは思えない空気を板塀から醸し出していた。記号にしか見えない朝鮮語表記と、傍らに日本語表記もあって地上の楽園、朝鮮民主主義人民共和国と記されていた。そのポスターが色褪せた頃に新しいのに変わり、その都度、独特な色使いと絵柄に子供ながらに興味を抱いたものだ。良いこと尽くしの言葉とどこか不自然な笑顔で誘いをかける、実はそれを見たときの気分と、教会から伝道されて次々とかけられる親しみの言葉や笑顔、或いは証し会で感動しきりの話を受け取るときの気分が同じ、というか同じぎこちなさを覚えたのは私だけだろうか。私自身は友達から教会の話を聞いて自分から出向いて講義を受けたものだから、誘われて、というのとは少し入り口が違っていた。もし普通に伝道されて誘われていたら引いていたかもしれない。しかし食口達の教会に対する感謝感謝でしかない話や、神様に出会ったであろう食口の感動の証しは世間にどっぷり漬かっている人間からすれば実に胡散臭いし、おめでたい人達だなと突き放されてしまいかねない。それはどこか変わった人達、すなわち洗脳された人達と認識されてしまう。要するに食口が教会を証すればするほど距離を置かれるということだ。おそらく赤子のような食口達からすれば更なる説明、教会用語でいうところのアベル的発信が足りないと思っているが、実は発信の仕方、説明の仕方が間違っているとは少しも思っていない。教会の改革を示すのに、新しく人事された若い二世達を壇上一杯に並べる様を見せられて記者達がどう思ったか知らないが、一般人に教会改革を示すのさえ教会思考によるやり方なんだなと、少なくとも私はがっかりした。

2024年9月7日土曜日

今日の想い 1324

 米が店頭から消えている。運よく見つけたとしても三から四割は高値で供給されている。新米が出揃う頃は落ち着くと言われながらも、価格はというと五割から十割増しだという。長く続いていた日本のデフレ経済から、地政学的理由や通貨安要因で一気にインフレ経済に振れてしまった。去年今年と物価は一割二割と上げてきたが、米は差ほど高くはなっておらず庶民には有難かったが、ここにきて他の物価高がかわいく思えるほど圧倒して値上がりした。米は主食であると同時に資源米でもあって、飼料や他の食品の原料にもなっているのであり、そうなると食品全般に更なる物価高が押し寄せるのは目に見えている。インフレは日本に限らず世界的に起こっている経済現象だが、ドルを始めとする主要通貨すべてが爆刷りしてきた結果を今のインフレに見ている。爆刷りした通貨は先ず金融マーケットに流れ株の爆上げとなってきたが、金融と経済に壁があるわけでもなく、そうなると当然生活に関わる実体経済に波及するわけで、株が何倍にもなったと同じように物価も何倍にもなる、というのが論理的予想だ。インフレの流れの原因をどう捉えるかが大事だが、景気が上向きで需要が高いからインフレ方向になるのか、通貨安によって相対的に物価が高くなるインフレなのか、当然今回は通貨安によるインフレだ。米大統領選候補者カマラハリスはインフレ対策として価格統制を掲げている。アメリカはかつてニクソンが価格統制の大統領令を出して大失敗している。価格統制されれば製造販売業者はやり繰りできず物は不足する。不足すればどんなに高くとも闇市に行かざるを得ないのであり、実質的に統制どころか物価は高騰する。誰の入れ知恵か知らないが、カマラハリスはこの浅知恵で大統領が務まると思っているところがアメリカの国力低下を如実に表している。おそらく誰になろうともアメリカは既に詰んでおり、アメリカが牽引してきた世界も当然詰んでいる。2025年のアメリカが、日本が、世界がどんな地獄状況を呈するか、その確定執行を首を洗って待たないと次に進めない。

2024年8月31日土曜日

今日の想い 1323

久しぶりに朝生を見た。平和ボケ日本では相変わらず軍拡への批判と、話し合いと外交で戦争を回避するという認識一辺倒なのだろうという先入観ありきで見始めた。若い女性も二人いて、特にこの二人の意見は聞き逃さないようにしようと眠い目をこすりながら頑張った。90を超える司会者はいい加減席を若い世代に譲ったらと誰もが思うだろう。頭の固さや頑固さもそうだが、とにかく活舌が悪くて聞き苦しい。彼に引導を渡せないのも日本社会故だ。言論村の重鎮には何も言えない。それはさておいて若い二人の意見だが、戦争の恐ろしさを知っている世代がいなくなったらとか、戦争の恐怖を伝えていくことで戦争回避できるとか、どうも闘うことイコール恐怖という風に刷り込まれているのか、先ずこの恐怖の感情あっての意見であったり議論であったりというのは果たして平和に対する前向きな態度と言えるのだろうか。人生の中で闘う場面は度々あるだろうに、そして闘うことの恐怖心を超えなければ希望はないように、人生での闘いと国家間の戦争との関連性は全くないと認識しているかのように戦争の恐怖を超えるのではなくひたすら避けようとしている。願わない喧嘩を吹っ掛けられても逃げるわけにはいかず、拳によらないにしても何某かによる闘いは避けられないわけで、そこの想像力が働かないのが平和ボケ国民の平和ボケたる所以で、やはりこの国には一発ミサイルでもぶち込まれなければ目は覚めないらしい。そうなると流石に外交だの話し合いだのという意見は吹っ飛ぶだろう。核保持による回避を議題に上げても、戦争の恐怖ありきの人間に核議論を持ちかけてもどうにもならない。