2025年6月16日月曜日

今日の想い 1387

 神様は我が子を愛したいという一心でこの天地万物を創造された。同じように堕落世界であっても親は我が子の幸せを願う一心で子供の環境圏を用意する。私達のみ言葉訓読は訳のわからない経の漢字の羅列を意味もわからず追うのと同じで、ただ追うことに意味があるのだろうか。どれだけ訓読しようともそれだけでは愛の本質は掴めない。愛に関するみ言葉は山ほどあり、祈りでも会話の中でも始終使う愛という言葉だけれども、言葉だけが氾濫して恰も愛し愛されていると誤解したまま年月を経てきたのではないだろうか。食口は優しいけれども愛の本質は優しさではなく、先ず厳しさが立たなければ言葉だけの愛、等閑な形だけの愛という真の愛とは異なるものとなってしまう。私達は本当に御父母様を愛し、兄弟姉妹を含む教会を愛していただろうか。「どうぞこの者達をお許しください。彼等は愛の本質を知らず受け取れなかったのです。」もしアボジが神様にそうとりなしの祈りをされていたとしたら何とも幼い、どこまでも愚かな我々であったと思う。アベルを通してアボジからくる願いにひたすら応えようとしてきただけだ、その言い分を聞かれてアボジは頷くだろうか。私達は親に、愛すればこその一言ができて当然の子女であるはずが、ただただ言われるままに蠢いていたとしたら子女ではなく奴隷だろう。愛でこそ全てを獲得できる。そうでなければ神様は愛の神様ではない。私達は教会を失いかねない状況だが、失って初めて教会への想いが、即ち教会を愛するという意味が理解できるのだろう。私は今の教会が神が愛する、摂理を牽引する教会だとは思わない。皆の切なる想いは今の教会には感じ取れない。教会を親なる神の宮として失うまいとする必死さは伝わらない。子供は愛で繋ぎとめているように、教会を子供のように想う愛が私達から欠如していたら失ざるを得ない。それは愛の原則だ。

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