2025年6月12日木曜日

今日の想い 1385

 青春よ早く過ぎ去れと叫ばれたアボジは青春がもたらす何をして過ぎ去れと思われたのだろうか。堕落人間、とりわけ男性の堕落人間は衝動、それも恋愛衝動や性衝動に違いないと思うのだが、その言葉に対してその前後もどういう機会に述べられたのかも定かではないので何とも言い難い。アボジとして摂理的使命の観点から言われたとしても、敢えて人生ではなく青春なのだから意味合いとしては遠からずだろう。そう仮定して話を進めるけれども、今となっては青春期はとっくに過ぎ去ったはずなのに未だにその衝動を持て余している自分を見ると、ひたすら我慢に我慢を重ねてここまできたけれども流石に衝動=罪、堕落性とはならないことは理解している。教会は敢えて言葉は使わないにしても禁欲主義であるのは間違いない。水産部の男だらけの環境に巡回師の御姉様が来て何を話すのかと思ったら、性欲を抑えられず自分で慰めているという告白を受けたがこれは明らかに罪だからそういう行動は絶対しないようにと、壇上から居座る男性全体を見まわし声高らかに申し渡された。その場が気まずく誰もが視線を落として遣り過ごしたが、私自身はではどうすればそういう衝動を抑えることができるのか聞きたかったのだか当然手を上げられる雰囲気でもなく、うやむやなまま気恥ずかしいままで終わった。巡回師も幼く食口全般も幼かったが、もし当時禁欲主義として我慢一辺倒に抑え込むのではなく、罪としての衝動を人間本来の創造的衝動の一面と捉える教育や、その衝動エネルギーをどう実体的創造へと、他の為に生きる人格の向上へと変換できていたら教会の発展と成長は目覚ましいものとなったはずだと私は思っている。衝動は遠ざけるものではなく、それをどう捉え主管し変換していくかにかかっている天から与えられた生きる力だ。しかし先天時代の教会のただただ否定する在り様は蕩減時代故だったと受け取るしかない。

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