2025年6月15日日曜日
今日の想い 1386
教会の今の状況を失敗とみてアボジはメシヤではなかったと結論付けたい気持ちはわからないでもない。しかし今の状況に対する責任をアボジ一人にのみ負わせ、私達の責任放棄には疑問を抱かないのだろうか。また父母様や御家庭の問題とされるものを一般食口の立場でありながら問題とする判断は何を根拠にしているのだろうか。一般的善悪観だろうか、はたまた学んだ原理による判断だろうか。原理的判断によるものなら原理はアボジが与えたにもかかわらず、その原理による判断をアボジ当人にすることにはどうも矛盾を覚えずにはおれない。原理が他の誰かの言葉の寄せ集めであったり、アボジがただのシャーマンで真理の橋渡し存在だけだと言うなら、アボジ以上に真理を理解してアボジをどうこう言うことはできるが、アボジは未だ語られなかった真理も含めてこの方の言葉に神霊が生きて働いていたことは疑念の余地はない。ほとんどの食口はそうだと思う。少なくとも私はそうだ。御言葉を聞いた当時は幼かったから信じてしまったと言うなら、そんな歳を経る毎に変わる私の今のメシヤではないという判断を正しいと断定してしまっても、明日にはまた違う判断をすると捉えるのが当然だろう。人間の感情は浮き沈みするし、思考もまた左右する。意志に至っては朝に決意したことを夕には忘れている。そんな軸が立っていない私と言う人間に霊的な中心軸というか柱を立てることができたのはアボジによっている。魂は揺らごうともこの戴いた霊的柱は揺らぐことはない。私達の良心はこの霊的柱からくる。もしアボジのメシヤであることを否定するとして、人生の殆どを費やし、献身し犠牲を供えてきた私の歩みは無駄だったと結論付けるには余りにも悲しく悲惨であり、そんな自我抹殺をしてまで地上でも霊界でも存在するなど到底受け入れられない。人間であることを辞めると言っているのと同じだ。
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