社会的人間として公的な位置でみ言葉にそぐわないものは悪だと断定するのはいいだろう。不倫も悪だし同性愛も悪だ。しかし当事者に対して不倫をしたから距離を置くとか、同性愛者だから罪を犯していると当然のように対するのは違うはずだ。救いに至る道筋を示そうとするのならまだしも、自分はそういう間違った道に向いてもいないしそういう要素も全くないと言わんばかりに上から目線で対している。我知らないうちにだ。そして相手を前にしたら線を引いて関係ないかのように立っている。はっきりいって私はそういう食口が良心に向き合っているかどうかを疑う。私は不倫に至る内外の環境圏から遠ざかっていただけで、もし同じ境遇にあったらそうなることはわかりきっている。今までそういう試練と環境に会わなかっただけの話だ。また自分自身は同性への指向は全くないけれどもそういう人は食口も含めて多く知っている。特に原理を聞いた(幸か不幸か聞いてしまった)彼等の、一般人からすれば想像もできない精神的苦痛と人生の辛さは計り知れない。彼等の多くは自らその道を選んだのではなく生まれながらの、というか気付いてみたらという宿命的な人生だろう。それを思うと原理を伝えることが彼等の救いではなく、裁きを下すことになるのではないかと躊躇してしまう。多様性を性の問題解決に持ち込み、何でもありとするのは危惧するけれども、現実に自分の性の指向に悩んでいる者に対してどう救いに至らす道を示せるかどうか。今世だけではどうにもならず世代を超えて地上生を重ねなければ解決できない問題なのだろうか。み言葉は素晴らしいけれども万民に幸福をもたらすものかどうかはどうしても疑問が残る。
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