2007年4月25日水曜日

レストラン教会

特にレストラン商売はいつも客に顔を向けている必要がある。客の店に対するイメージが全てだ。それがたとえ営業時間外のことであっても疎かにすることは決して出来ない。電話の客に対する応対であれば声だけで全てを判断されるため、トーンやリズム、間の置き方全てにまで気を使わなければならない。営業時間を過ぎて入ってきても、シェフが中にいる限りはオーダーを取る。断りを入れる場合も細心の注意を払って伝える。どんなに広い心を持った客であっても、客は元来わがままなものであるという認識は必要だ。後で来た客の方が品物がでるのが早かったとか、サーバーが皿を置いたとき音を立てただとか、よくもこんな小さなことまでと思えるほどに客は気にする。自分が客で他の店に行ったときもいくらでも文句が出てくるので、客の立場そのものがそういうものなんだと認識する必要がある。以前卸に勤めていたときと、今レストランを運営しているときと、その神経の使い方を比べるなら天と地ほどの差がある。先日週末に、必要な食材がショートしてしまった。急いで業者のセールス担当と鍵を持っている在庫担当に電話を入れ、事情を話して何とかしようと思ったが私が知ったのが日曜だったせいもあってそっけない返事しか返ってこなかった。落ち度は100%こちら側にあることを百も承知で敢えて言わせて貰うなら、彼らには商売の基本が抜けている。その物言いに客の立場に立った対応は感じられない。出来ないことは出来ない、しかしそのことをどう客に納得してもらうかの配慮がないし配慮の必要性を感じていない。これを殿様商売というのだろう。レストラン業界も流通業界も競争は益々激しくなってくる。客は価格の安さに飛びついてくるように思える。しかし価格だけに意識が行き過ぎてもっと大切なことが疎かになっていないか。兄弟にレストランで働きたいか卸し業務で働きたいかを聞けば八割強は卸で働きたいと言うだろう。神経の使う度合いが違う。兄弟は精神的負担を好まない。実入りがどうこうと言うより少しでも楽に生きたいという気持ちがある。摂理を進めようとする場合、伝道しようとする場合、気も使う神経も使う心も使う、そのことから敢えて逃げようとしている態度や姿勢は見るに悲しい。自分が本当に天の為に役に立ちたいと思っているのか、或いは恵みから漏れるのを恐れ、裁かれるのを恐れてしがみついているだけなのか、どちらでもなく生きながらえる為の生活の支えだけなのか、よくよく考えてみる必要がある。客が引き従業員が引くと私一人が残る。店の中で叫ぼうが泣こうが誰も干渉しない。歌って発散するも良し踊って馬鹿になるも良し、そして何よりも瞑想の空間がそこにあって祈りの場があることが自分にとって本当に有難い。静まり返った店の中で自分としっかり向き合い神様と対話できるとき、思考の底から魂の内から自分の在り様が教えられる。御父様がレストラン教会と言われるように、レストランは自分にとっての教会である。

2007年4月18日水曜日

ひとつの信仰形態

私が籍を置く教会リージョンには分派と呼ばれる集まりがある。御父様 のお兄様か誰かの啓示が下った様で、大母様と同じような霊的役事をしている。教会と縁を切ってやっているという意識は彼ら達にはなく、より教会の為になるという想い入れが強く働いている。直接集会に行ったことは無く又聞きではあるが、役事もパワフルで病が治ったという証もいくつか耳にする。摂理に対する活動も積極的で、疲れた兄弟のような形だけお付き合いしておくという関わりではない。御父様にも何度か役事の許可を得ようとしたようだが、勿論聴く耳など持たれるはずがない。これを公に許すなら大きな混乱を来たす。恐らく当の本人は御父様を思ってのことで私的な思いは無いと思う。無碍にされればされるほどに、一片丹心の気持ちが益々募って想い入れは強くなっていく。その集まりにある程度関わっている兄弟と話す機会があった。私が思った通り信仰には磨きがかかっている。み言葉もよく読んでおり考察も深い。さらに謙虚な姿勢は前の彼を知るなら明らかだ。み言葉を生活実践するという意識が実に強い。なかでも私に興味を持たせたのは御父様がこれ程にパワフルであるのは愛の何たるかを実践しておられる、誤解を恐れず言うなら夫婦生活のあり方が力の基なのだと言う。夫婦生活のあと疲れるのは真の行いではないからそうで、本来は一つになればなるほど力は出てくる、と言う。私はほほうと思った。道教に見る性のあり方のような理解が彼らにはある。何もわかっていないただ付いて来ているだけの兄弟にとっては毒薬なのかもしれないが、み言葉の何たるかをわかっている者には気付かなかった感性が開けるような気もしてくる。私の周りの兄弟は何度も何度も誘われているようだが、何に対しても距離を置くことで今まで歩んできたから、自分はその集会に行っても心を開くことはないなとは思うが、誘われたことは一度も無い。

長子国家

世界がアメリカを中心として回る為に、アメリカはどうあるべきかをアメリカは常に思考し続けている。理解を超える戦略も、理屈に合わぬ外交態度も全ては先の先まで見通してのことだ。日本は今、政府の借金が1000兆円に迫ろうとしている。アメリカはどうかというと家計の借金が1000兆円を超える。今までの日本の家計のように貯蓄という意識はあまりない。貯蓄よりも投資して資産を育てることを考える、と言うよりそう政府に仕向けられている。大きく分けて債権と不動産だが、とりわけここ五年六年の間は住宅購入が投資の流れだ。五年前に比べて全米平均の価格上昇は二倍近くなっているのではないだろうか。私が住んでいるカウンティーは三倍以上の上げ幅になっているところもある。自分はアパート住まいだからどうでもいい話だが、ここまでの上げ幅だと下手に仕事をするよりは住宅の売り買いを短期で回したほうがよっぽど資産は増えていく。アメリカは住宅ローン支払い途中でもその住宅の価値分の新たなローンを組むことが出来る。ホームイクイッティーローンがそれだ。使用用途は問われることな簡単に貸してくれるから、借りては買い借りては買いを繰り返す。過去五年の住宅購入の七割方がセカンドハウス、サードハウスだという統計からもその流れが良く解る。住むための購入ではなく明らかに投資対象だ。たとえ平均年収十万ドルとしても、平均住宅価格が年収の六倍七倍に迫る状況は明らかにバランスを逸している。ソフトランディングか何だか知らないが、この今にも破裂しそうな状況を少しずつ少しずつガス抜きしようとバーナンキさん頑張っているが、おそらく無理だと思う。遠からず必ず破裂する。アメリカという国は実に面白い。いかにも国民に目を向けているようで、しかし実のところ国民をだしにしながらアメリカが世界の中心であり続けるための道具にされている。中心であり続けるためには世界経済を押さえる必要がある。そして世界経済を押さえる為に米ドルが機軸通貨である必要がある。基軸通貨であるために他国(特に日本、中国)がドルを買い続け増やし続ける必要がある。ただ持たせているだけではどうにもならないので、それを更に増やしてあげますよと誘い文句をかけ、アメリカの債権を買わす。債権の中には住宅ローンの債権も勿論ある。他国が買ってくれる債権の為に国民には借金し続けろというのが住宅バブルだ。基軸通貨であるために回し続ける必要がある。だまっててもドルが世界を回りまわった時代はとっくに過ぎている。それを今はアメリカ自身が手を変え品を変えてまわし続けている。国民の借金がどうなろうと国の知ったこっちゃない。これがアメリカなのだ。しかしだから悪だとは言えない。世界の主導権を握り神の御心に地球船の舳先を向けることが出来るなら、立派に長男としての責任を果たすだろう。イラクのフセインがユーロ建てにオイルマネーを変えようとしたことが、アメリカがイラクを叩くことの根底にある。911も実は陰では予想していたのだと、とんでも本に書いてあることも満更うそではないらしいと思えてくる。アルカイーダからフセインへどう言い訳しても無理がある。とにかくアメリカの、外見にはいたずら息子の大暴れ振りで世界は呉越同舟だ。もはやアメリカが倒れるときはアメリカだけに終わらない。日本も中国もアメリカと二人三脚であり世界全体が複雑に連鎖しあっている。勿論人類一個人一個人も例外なく根底から影響を受ける。だからこれから世界規模の変革が起こらざるを得ない。経済だけに留まらない。その変革は地球を巻き込み宇宙を巻き込んでいくだろう。神様が対することが出来る宇宙となり人類となるために先ず混沌期を潜らせ、個人から始まり全ての段階で善と悪を振り分ける作業が始まろうとしている。バブル崩壊はその突破口なのだ。

2007年4月17日火曜日

金融商品

金融という化け物は有機的グローバル社会の循環系(金の流れ)に於いて何を意味するのだろうか。異常に血液(マネーサプライ)を必要とする大きな癌細胞なのだろうか。金融によって濃度の濃かった血液は水で何倍にも薄められて社会を流れていく。かたや一日に数十億数百億得たり失ったりする一方で、ビジネスの底辺に於いては一日に数ドル数十ドル単位の経済だ。この呆れ返るほどのギャップが引き起こしているものが何であり、結果としてどうなっていくのか、今の私にはわからない。今摂理に於いて天文学的マネーの必要性がある。そうであれば魚一匹を売り、すし一つ一つを握ることに意味を見出せなくなる。これに応えるには金融社会に足を踏み入れるべきなのだろうか。必要性を踏まえて天が用意したものが金融ビジネスであるなら、地道に底辺で商いをしていることに内的意味は見出されるとしても実質的マネーを稼ぎ出す意味合いは薄れてくる。日本に於いては兄弟が多重債務を抱えながらも摂理をバックアップしてきた。背に腹は変えられない状況でこうならざるを得なかったのかとは思うが、少なからず経営に従事してきた者としてはその状況は将来に対する責任を放棄することを意味している。首の回らない今の状態を借金を始めるとき思い至らなかったのか、解っていても従順屈服の思いで周囲を見回して右に倣えでそうせざるを得なかったのか。借金で首が回りませんと言い訳することが天の願いとは思わないし、借金してでも出せというのが本当に天の願いなのかどうかは私にはわからない。兄弟の苦労は痛いほど理解してた上で敢えて口にするなら、借金することを我々が選んだのであるならそれは意識しない逃げだと思う。返せる見込みのある借金は百歩譲って良しとしても、摂理はその金がつぎ込まれたことで終える訳ではないだろう。更に進められ資金はもっと必要になってくる。その事への算段を少しでもするなら、強盗は出来ても借金はできないことに思いは至る。借金を抱えた時点で、返すことに意識も心も働きも活動も捕えられて、摂理に対するエネルギーは残されない。要するに借金した時点で摂理から距離を置くことになる。だが、、、しかし今のこの金融ビジネスだ。借りることに足を踏み入れた以上更に借りて金融社会へデビューすべきなのかも知れない。もはや怖いものなしと言うことだ。借金地獄から一気に金融天国に次元移動する。この金融バブルはそのうち必ず弾ける。それも破壊的状況で弾ける。しかし日本の兄弟の借金がチャラになるまでバブル景気は続くと思っている。早く手を付けろと霊界が後押ししている今なのだ、とそう思う気持ちも実はある。

人事

人事に忠実であり絶対服従の意識を持ってそれを受けることは大切だと思う。しかし後先も考えず身体だけ移動してもそれは本当の意味で人事を受けたと言えるのだろうか。無意識的無責任の行動は後先を考えない。鼻から他人任せなのだ。自分自身のことすら他人任せなのだ。そういう者は人事に従うことはただの形だけの踏み絵に過ぎないだろう。今まで人事を蹴って組織の外に流れていった多くの兄弟がいる。御父様は彼らを断罪するだろうか。私はそうは思えない。組織を離れることが信仰を投げ出すとか、反旗を翻すとかと言うことではない。み旨に貢献することを否定して人事を受け入れないのか、自分はこれを受けても貢献できないと言う思いから受け入れないのか、その本当の動機は本人と神様しかわからない。おそらく、より貢献できる確信もなく受け入れるほどの捨て身にもなれないと言う思いがあるのはそうだと思う。では御父様から直接人事を受けた場合も背を向けるのだろうか。それはないし自分もそうだとは思う。槍を持てと言われれば槍を持ち、死ねと言われれば死ねるかと言われれば、おそらくそうだと思う。ある意味祝福だって外的なことだけを言えばひとつの人事だ。この兄弟(姉妹)と一緒になれと言われれば好き嫌いを乗り越えて一緒にならざるを得ない。それだけの人事の重みを直接の中心に対しては覚えないだけの話だと思う。この組織に属することを宿命的責任分担として受ける兄弟の横で、生活のために籍を置いているだけの人事権外の兄弟がいる。この位置の違いを内的にどう捉え、説明し、理解を得るかが中心の重要懸案だと思う。それが曖昧なままで人事権をどうこう言うことはできない、と思う。

無意識的無責任

社長は社長で深く祈り、熟慮に熟慮を重ねた末の発案であり結論であると思う。しかし受ける側に於いて、その為さんとし背負おうとしている組織作りの意味も、そのための借金の重みも、理解しているとは思えない。皆の目は一様に据わってはいない。自分には何も降りかかるものはないと安心し切っている。自分の会社や店であるなら、たとえ発展的な投資だとして、借金するにしても相当の腹なり決意が必要なのだ。その重みある言葉のひとつも兄弟の言動から感じることはない。更に言うとその借金も店にとっては投資の為の発展的なものではなく、莫大な損金でしかない。敢えて言うなら私も含めて無意識的に無責任であるのが悲しいかな大方の兄弟だ。ある意味我々の組織は過保護であり過ぎたのだと思う。給料や報酬という、仕事に対する根本的制度を否定してきた為に、減収措置を取られることを始めとする責任を取るという意味合いがわからないで来ている。どんなにポカをしても形として自分に火の粉はかからない。ならば責任を取らせて指を詰めるとか腹を切るとか責任の取り方を要求していれば今の能天気な状態にはならなかっただろうにと思う。責任を取ることを知らない人間が、物事に対して本質的真剣さを学ぶことはない。今となっては道楽的体質の個人も組織も使い物にならない。祝福家庭だからというただそれだけで生きながらえて来た者は、自分を変革することなしに生き延びることは今後ありえないだろう。

体質改善

今の組織体質であればこそ繋がっており、それなりに役に立っている兄弟が今の時点では残っているのだと思う。よって今の状態が変わるなら、今席を置いている兄弟達が残ることが出来るだろうか。たとえ残っていくとしても貢献できる状態であるかどうかは甚だ疑問だ。体制が変わればそれに合った人材が用意され集まるものだと思う。今ある人材(兄弟)は去るにしろ残るにしろ、彼ら自身新しい意識を身に着けることを要求されるだろう。生を繋ぐ事それ自体に意識改革が要求される。もはや新しい意識の次元が世を覆っている。後天開闢時代の夜明けが個人に於いて組織に於いて意味するものを考えなければならない。それに合わない或いは合わせようとしない個も組織も淘汰されざるを得ない。天の組織なんだと息巻いても、願いから程遠い現実であることは否定できない。ただ単に、願われる規模のビジネスではないとか利益の桁が違うとか、そんな次元の話ではないだろう。新しい時代の価値観、意識、存在理由に合わない限り、お題目だけで生き残ることはできない。組織が変わることと同時に個も変わることを否応なく要求される。会社を大きくしていくことが必要であるとか利益をどうやってはじこうかとか、多分に方法論に目を向けようとするが、それ自体勘違いも甚だしいという感じを受ける。もっと本質的な問いを、責任者を始めとする一人一人が問いかける必要がある。

疑問

会議が月初めにあって半月が過ぎる。あの会議が何であったのか反芻してみるにはいい間(ま)だと思う。社長の言わんとすることは解る。御父様の願いに何とか応えたい切実さも解る。しかしどんなに社長が訴えても、それでマネジャー一人一人が変わるだろうか、我々の体質が変わるだろうか、現場が変わるだろうか、と言うのが正直思うところだ。当の本人達は願いに応えようと思っていると思い込んでいる。しかし前にも書いたが所詮受身でしかない。自分が意思と行動の出発点であるべきことを理解していない。目は前を見、身体はその場にあっても心の在り様は違う。どうしても他人事の域を脱することはない。自分の意識の立ち位置すらわかっていない兄弟の方が多い。願いに応える、中心の為に決意する、精誠を捧げる、立派な言葉は確かに多い。しかしその本当の意味を解ってもいないし解ろうともしていない。解ったつもりでいる。そういった言葉を口にして唱えていればそうなっていると錯覚を覚えている。信仰を繋いできた今までの年月、ずっと錯覚し続けている。自分で生きる、自分で稼ぐ、自分で欲しいものを掴む、と言う感覚がないものが更にそれを超えた意識に到達することが出来るだろうか。自分が学生上がりでこの道に来た為にそんなことを思うのかもしれない。でも社長の言いたいことだけを聞いて、それで終わりだと言う雰囲気がないといえるだろうか。