2007年4月18日水曜日
ひとつの信仰形態
私が籍を置く教会リージョンには分派と呼ばれる集まりがある。御父様 のお兄様か誰かの啓示が下った様で、大母様と同じような霊的役事をしている。教会と縁を切ってやっているという意識は彼ら達にはなく、より教会の為になるという想い入れが強く働いている。直接集会に行ったことは無く又聞きではあるが、役事もパワフルで病が治ったという証もいくつか耳にする。摂理に対する活動も積極的で、疲れた兄弟のような形だけお付き合いしておくという関わりではない。御父様にも何度か役事の許可を得ようとしたようだが、勿論聴く耳など持たれるはずがない。これを公に許すなら大きな混乱を来たす。恐らく当の本人は御父様を思ってのことで私的な思いは無いと思う。無碍にされればされるほどに、一片丹心の気持ちが益々募って想い入れは強くなっていく。その集まりにある程度関わっている兄弟と話す機会があった。私が思った通り信仰には磨きがかかっている。み言葉もよく読んでおり考察も深い。さらに謙虚な姿勢は前の彼を知るなら明らかだ。み言葉を生活実践するという意識が実に強い。なかでも私に興味を持たせたのは御父様がこれ程にパワフルであるのは愛の何たるかを実践しておられる、誤解を恐れず言うなら夫婦生活のあり方が力の基なのだと言う。夫婦生活のあと疲れるのは真の行いではないからそうで、本来は一つになればなるほど力は出てくる、と言う。私はほほうと思った。道教に見る性のあり方のような理解が彼らにはある。何もわかっていないただ付いて来ているだけの兄弟にとっては毒薬なのかもしれないが、み言葉の何たるかをわかっている者には気付かなかった感性が開けるような気もしてくる。私の周りの兄弟は何度も何度も誘われているようだが、何に対しても距離を置くことで今まで歩んできたから、自分はその集会に行っても心を開くことはないなとは思うが、誘われたことは一度も無い。
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