2007年4月17日火曜日

金融商品

金融という化け物は有機的グローバル社会の循環系(金の流れ)に於いて何を意味するのだろうか。異常に血液(マネーサプライ)を必要とする大きな癌細胞なのだろうか。金融によって濃度の濃かった血液は水で何倍にも薄められて社会を流れていく。かたや一日に数十億数百億得たり失ったりする一方で、ビジネスの底辺に於いては一日に数ドル数十ドル単位の経済だ。この呆れ返るほどのギャップが引き起こしているものが何であり、結果としてどうなっていくのか、今の私にはわからない。今摂理に於いて天文学的マネーの必要性がある。そうであれば魚一匹を売り、すし一つ一つを握ることに意味を見出せなくなる。これに応えるには金融社会に足を踏み入れるべきなのだろうか。必要性を踏まえて天が用意したものが金融ビジネスであるなら、地道に底辺で商いをしていることに内的意味は見出されるとしても実質的マネーを稼ぎ出す意味合いは薄れてくる。日本に於いては兄弟が多重債務を抱えながらも摂理をバックアップしてきた。背に腹は変えられない状況でこうならざるを得なかったのかとは思うが、少なからず経営に従事してきた者としてはその状況は将来に対する責任を放棄することを意味している。首の回らない今の状態を借金を始めるとき思い至らなかったのか、解っていても従順屈服の思いで周囲を見回して右に倣えでそうせざるを得なかったのか。借金で首が回りませんと言い訳することが天の願いとは思わないし、借金してでも出せというのが本当に天の願いなのかどうかは私にはわからない。兄弟の苦労は痛いほど理解してた上で敢えて口にするなら、借金することを我々が選んだのであるならそれは意識しない逃げだと思う。返せる見込みのある借金は百歩譲って良しとしても、摂理はその金がつぎ込まれたことで終える訳ではないだろう。更に進められ資金はもっと必要になってくる。その事への算段を少しでもするなら、強盗は出来ても借金はできないことに思いは至る。借金を抱えた時点で、返すことに意識も心も働きも活動も捕えられて、摂理に対するエネルギーは残されない。要するに借金した時点で摂理から距離を置くことになる。だが、、、しかし今のこの金融ビジネスだ。借りることに足を踏み入れた以上更に借りて金融社会へデビューすべきなのかも知れない。もはや怖いものなしと言うことだ。借金地獄から一気に金融天国に次元移動する。この金融バブルはそのうち必ず弾ける。それも破壊的状況で弾ける。しかし日本の兄弟の借金がチャラになるまでバブル景気は続くと思っている。早く手を付けろと霊界が後押ししている今なのだ、とそう思う気持ちも実はある。

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