2007年4月17日火曜日

人事

人事に忠実であり絶対服従の意識を持ってそれを受けることは大切だと思う。しかし後先も考えず身体だけ移動してもそれは本当の意味で人事を受けたと言えるのだろうか。無意識的無責任の行動は後先を考えない。鼻から他人任せなのだ。自分自身のことすら他人任せなのだ。そういう者は人事に従うことはただの形だけの踏み絵に過ぎないだろう。今まで人事を蹴って組織の外に流れていった多くの兄弟がいる。御父様は彼らを断罪するだろうか。私はそうは思えない。組織を離れることが信仰を投げ出すとか、反旗を翻すとかと言うことではない。み旨に貢献することを否定して人事を受け入れないのか、自分はこれを受けても貢献できないと言う思いから受け入れないのか、その本当の動機は本人と神様しかわからない。おそらく、より貢献できる確信もなく受け入れるほどの捨て身にもなれないと言う思いがあるのはそうだと思う。では御父様から直接人事を受けた場合も背を向けるのだろうか。それはないし自分もそうだとは思う。槍を持てと言われれば槍を持ち、死ねと言われれば死ねるかと言われれば、おそらくそうだと思う。ある意味祝福だって外的なことだけを言えばひとつの人事だ。この兄弟(姉妹)と一緒になれと言われれば好き嫌いを乗り越えて一緒にならざるを得ない。それだけの人事の重みを直接の中心に対しては覚えないだけの話だと思う。この組織に属することを宿命的責任分担として受ける兄弟の横で、生活のために籍を置いているだけの人事権外の兄弟がいる。この位置の違いを内的にどう捉え、説明し、理解を得るかが中心の重要懸案だと思う。それが曖昧なままで人事権をどうこう言うことはできない、と思う。

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