会議が月初めにあって半月が過ぎる。あの会議が何であったのか反芻してみるにはいい間(ま)だと思う。社長の言わんとすることは解る。御父様の願いに何とか応えたい切実さも解る。しかしどんなに社長が訴えても、それでマネジャー一人一人が変わるだろうか、我々の体質が変わるだろうか、現場が変わるだろうか、と言うのが正直思うところだ。当の本人達は願いに応えようと思っていると思い込んでいる。しかし前にも書いたが所詮受身でしかない。自分が意思と行動の出発点であるべきことを理解していない。目は前を見、身体はその場にあっても心の在り様は違う。どうしても他人事の域を脱することはない。自分の意識の立ち位置すらわかっていない兄弟の方が多い。願いに応える、中心の為に決意する、精誠を捧げる、立派な言葉は確かに多い。しかしその本当の意味を解ってもいないし解ろうともしていない。解ったつもりでいる。そういった言葉を口にして唱えていればそうなっていると錯覚を覚えている。信仰を繋いできた今までの年月、ずっと錯覚し続けている。自分で生きる、自分で稼ぐ、自分で欲しいものを掴む、と言う感覚がないものが更にそれを超えた意識に到達することが出来るだろうか。自分が学生上がりでこの道に来た為にそんなことを思うのかもしれない。でも社長の言いたいことだけを聞いて、それで終わりだと言う雰囲気がないといえるだろうか。
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