2008年4月24日木曜日

言語霊

アメリカに来て二十数年経つが未だにまともな英語は喋れない。決して自慢できる話ではないが日常生活に必要な最低限のカタコト英語で息を繋いできた。同じ頃にアメリカの地を踏んだ同士は何人か知っているが、皆それぞれに程度はまちまちである。中には私と話しても日本語よりも先にENGLISHが口をついて出るような者もいるし、発音は怪しいが何の苦も無くビジネス英語を操る者もいる。私なんぞは、お前今まで何をやってきたんだ、と言われんばかりに最も言語発育が遅れた部類に入るのだろう。言い訳するつもりはないが敢えて英語とは距離を置くようにしてきた、と言って置くことにする。英会話の上達が早い者の多くに共通することは、元々話好きだという事が一つにはある。会話好きというよりは喋り好きと言ったほうがいいかも知れない。今ひとつは自分のやりたいように振舞うタイプの人間が多い。そういう連中は最初から英語を使うことに何の苦も感じない。辺りかまわず人を捕まえてはブロークンENGLISHで話しかける。上達が早いと言ったけれど彼らは決して上品で美しい英語は身につかないし深い会話は出来ない。しかし中にはネイティブの人と深い議論を交わしたり、彼らを言いくるめるどころか感動さえ与えるつわものもいたりする。こういった連中は得てして国語もしっかりしているし考え方もぶれる事は無い。ブロークンENGLISHであれネイティブに近いENGLISHであれ英語を使うことに慣れた者は、多少の差はあれ普通の日本人とは幾らかかけ離れている。それが良いとか悪いとかいうことではなく、その言葉を身に着けるという意味は言葉の文化をも自分のものにするということにある。その国の言葉とその国の文化は切っても切れない表裏一体のものだと思う。言葉を身につければ否が応でも背景の文化をも身に着けざるを得ない。アメリカナイズという言葉を良く用いられる。決して良い意味に使われることは無い。適当に言葉を身に着けたが故に、適当な言葉、スラングや汚い言葉に含まれるその国の悪しき慣習をも身に着けている。ここで敢えて自分の事を言うなら、自分は適当な英語を学んでアメリカナイズされたくなかったということだ。更に英語文化の考え方や発想の仕方と日本でのそれとは根本的に違う、と思う。それを論証してみろと言われれば困るが直感として間違いないと思う。アメリカに住んでいようが自分は日本民族の血で成り立っている。自分が育まれた感性をいたずらに他の文化に染まることで壊したくは無い。そういった感性を尊いものと信ずればこそ、この地で彼らの文化の中で育んで来た彼らの感性をも尊敬できる姿勢が取れる。言葉に言霊があり言語に言語霊民族霊がある。

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