2008年4月2日水曜日
さくら
さくら、咲く。日本の国花が桜であるように日本人にとって桜は特別な意味を持つ。桜の花を視覚で受け取ると同時に桜に宿る霊魂に日本人の魂は包まれ染められる。美しいとか安らぐとか、そういった感情も味わうが、そういう感情の層の更に深みに作用する。昨夜からの小雨を朝まで引きずり、白々とする頃も霧雨に煙っていた。ワシントンモールのタイダルベイスンには明治の末、日本から贈られたソメイヨシノが湖岸の周りに植えられている。この時期綿雲が湧いたように薄桃色で湖岸は縁取られる。その美しさに影響を受けたのだろう。ワシントン周辺は桜の木が多く見られる。私が住むアパートも大きな桜の木が20本近くあり太い幹を水平に這わせ枝葉で天を覆っている。朝明ける頃は花びらは確認できたがまだ蕾んでいた。しっとりと濡れどんよりとした空に埋もれていた。しかし雑用に追われる一日を終える頃には空は晴れ渡り、気温もいつのまにか大きく上昇して、再び目にしたアパートの桜は一変していた。まだ数日先だろうと思っていた私を大きく驚かせた。全ての桜が一斉に花開いていた。今日一日の恵みを、燦々と地上に降り注いだ太陽は、既に遠くの木立に懸かろうとしている。溢れるばかりに受け取った恵みの陽光、その恵みを花びらに含めて一斉に開くことで喜びを表現していた。一面の薄桃色の天を仰ぎ見ながらその柔らかな甘い匂いに時を止めて浸る。呼吸も体液の流れも薄桃色に染まり、軽い酔いさえ覚えるくらいだ。つくづく自分は日本人だと思う。桜を題材にした歌は多い。その殆どが日本人としての魂が持っている、ある響きを共鳴させる。どれを聞いても魂の或る場所に同じ感覚を覚えさせる。桜の蕾みを前にして自分を誇張しない謙虚さを受け入れ、満開の桜を全身に受け取ることで、或る一瞬に全てを捧げる一途さを自分の中に見出し、はらはらと散る桜の中に佇む事で捨てきれずしがみついていた全ての煩悩を見送る。散る桜を見て寂しいのではない。寂しい感情に似ているが清清しい。大小の欲をひとつまたひとつ捨てながら心地よい神様への帰依を学ぶ。カメラが捕らえる瞬きの画像に自分を投影するのではなく、膨らみ始めた蕾みがやがて花開きそして散り行く一連の過程を自分の人生に重ねる。更に花一つ一つとしての魂ではなく日本民族として群れとしての魂を群舞する桜の中に我知らず見ている。自分が日本民族という群れの一部であることを桜舞う春に確認し、次の開花までの一年を桜の魂の在り様を糧にして過ごす。