2008年4月29日火曜日
久々の要請
死刑囚が処刑の日取りを告げられるような膠着反応を起こす。何度要請を戴いても心の海の波浪はより高まることはあっても静まることは無い。連絡してくる姉妹に私の度を越えた動揺が解るだろうか。あまりにも軽いトーンで電話連絡が来る。それで無くともガラス細工の様相そのものの在り方をした自分の内面は、それこそ処刑の場に赴く覚悟を迫られる。言葉の上だけでない本当の覚悟を自分の中で処理して初めて準備なり何なり、先に向けて行動することが出来る。感謝感謝というが感謝できないからわざわざ感謝する意思を働こうとさせる必要がある。感謝の念を備えるために感謝できない思いを超える必要がある。感謝できるその路程は堕落の世で築かれた自分の身体と心には苦痛以外何物でもない。その苦痛を乗り越えていって始めて感謝の本当の意味が見えてくる。その確信の度合いが信仰であり、自分を犠牲にしながら父母様との何らかの関係を戴くことで背後にある先祖であったりその地の霊であったりまたこの国の霊的背後に益する、そういう公的意識を最優先する意志こそ新しい心情意識を開拓するものだと思う。事実、今までそのような過程を通して一段上がった意識に目覚め気付かされてきた。その勝ち取った意識や、父母様や神様との心情因縁こそ感謝してもしつくせない何にも換え難い霊的財産である。その価値を確信すればこその総ての歩みである。ゆめゆめ受け入れてくださること等期待せず、ただただ精誠を尽くすことだけに集中する、それは父母様の心情にかするだけのほどの想いであっても通づるはずだと思う。
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