2008年4月20日日曜日

思い

僅か一日の歩みを振り返っても種々雑多の万にも及ぶ思いが去来する。その一つ一つの思いがどこから来てどういう作用を為しどう動いていくのか。思いは頭から発せられるものでそれ自体は影のようなもの、唯物思想に毒された者はそう捉えて何の疑いも持たない。科学的というこの世の五感でしか計りえないものしか信じない。見えないもの五感で感じることができないもの、それは非科学的だと一蹴する。宗教だとか信仰だとかというものは弱いものがすがるものであったり、特別な人変わった人が関わるものであったり、或いはファッションやスタイルという軽い気持ちのノリであったりする。そういった人々に比べれば我々は紙一枚次元の高いところに位置するのかもしれない。しかし生活の中でどの程度の違いがあるだろうかと問えば殆ど無いと思う。それは本当の意味で自分の霊人体の有り様が解っていないからだ。いろんな思いがどう霊人体に関わって作用しているのか理解していないからだ。そこを見ようとする意思が芽生えて初めてみ言葉の本当の価値が見えてくる。祝福の意味、み旨を歩むことの意味が見えてくる。本質の世界が開けてくる。自分の中に去来する思いを唯の影として捉える意識が我々にも往々にしてある。兄弟姉妹に対してどういう思いをその一人一人に持っているか、決して良い思いばかりではないはずだ。些細な感情もよくよく観察するといろんな否定的思いが浮き上がってくる。そういう思いはまだいい方で本当にそれすらない全くの無関心ということも多々ある。様々な想いで自分の霊界は形作られる。その思い一つ一つを観察すれば建立している自分の霊界が地獄なのか天国なのか見えてくる。分別するというすばらしい言葉を与えられている。様々な思い一つ一つをその都度自分の身にするか否かを選択できる。それは肉体を持った者の特権である。分別選択という過程が自分の霊人体を形作るわけだ。魂の奥から語りかけてくる良心の声こそ神様から直接届く働きかけである。そこに耳を澄ましながら自分に去来する思いを分別選択する。身体に現れる、行動として現れるその全ては自分の中で勝ち残った思いに拠っている。

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匿名 さんのコメント...
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