2015年4月15日水曜日

今日の想い 843

確かに40を越えても50半ばくらいまでは自分と家庭に対する内外の希望は持ち続けていた。そうなる為の明確な道筋が照らされていた訳ではないが、なんとなくそうなるはずだという淡い期待の気分はあって、その正しいと思われる気分に酔いながら日々を送っていた。しかしその淡い期待は尽く裏切られ、60に近い今は苦い気分や味気ない気分に浸っている時間が殆どだ。そうなった転機は妻の病でもあるし、悪化するにつれて私は心の余裕が持てなくなり子供に想いを伝え注ぐ余裕もなくなっていて、言い諭すつもりが裁きに近い直情的な言葉となって親子の距離を次第に離していった。妻の病が悪化するのと子供が親から離れていくのとは同時期だった。自分の人間理想と家庭理想のイメージに近付いているという気分で生きていて、そしてそれを信仰だとも思っていたのが、それが或る意味夢から地上的現実に醒めてしまって、信仰的気分の全てが実は夢に過ぎなかったのかどうか、今反芻している状態だ。人間は魂の存在であり、魂は知情意の存在だ。人間が霊的に堕落したのであれば勿論魂に於ける知情意も堕落的様相を呈する。私の人間理想と家庭理想のイメージは、たとえそれがみ言葉に準ずるものだと自分で判断したとしても、やはり所詮堕落的様相が大部分影響しているだろう。そうなるとそのイメージに対する理想主義的だと信じていた感情も、唯の気分に過ぎない堕落的なものだということになる。地上の大地が揺れて崩れる以上に、私の存在基盤だったものが揺れて崩れるのは堪え難い。堕落的私が基盤にしていた心魂の大地が崩れ去る。新しい天と地が御父母様の霊的勝利圏によって築かれたはずなのに、私はその新しい天地が未だに見えない。未だ勝利圏を相続するに至らず、かつて古代歴史に見るレムリア大陸が沈んでアトランティス大陸が隆起したように、崩れ去って霊の海に沈んでしまった古い心魂の大地に代わって、登壇すべき新大地が未だに現れない。人類は大陸が沈んで新しい大陸を見出すまでどうやって持ち堪えたのだろうか。聖教徒達はメイフラワー号でアメリカという新大陸に到着するまでどうやって持ち堪えたのだろうか。私達統一食口は霊的混乱と古い心魂の没落にどう立ち向かったらいいのだろうか。御父様が言われる絶対信仰絶対愛絶対服従の本質とは何だろうか。わかったつもりでいてわかっていないこの本質を見出さなければ、この天宙的転機を乗り越えられない。絶対信仰絶対愛絶対服従は確実に御父様の霊的勝利圏から浮き上がってきた心魂的大地だ。新しい知情意の形のはずだ。堕落故にその様相となった今までの理想としてきた様々な主義的思考を越え、人間愛や正義感等の理想主義的な感情を越え、今までの宗教的敬虔さを越える絶対服従という意を備えていく。老いて去りゆく日の近ければ近いほどに、この新しい心魂の大地を見出して踏みしめたいという想いは切実だ。昨夜来から風雨に晒され、いつ散るとも知れない満開の桜のように、次々と地上生を終えていく食口の報せを耳にしながら、自分のその時に向かう実感が迫ってくる。私は新しい心魂の大地を踏みしめることなくその時を迎えるのだろうか。

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