2015年4月18日土曜日

今日の想い 845(内的な嘔吐)

何度も何度も自分の中で繰り返している。ひとり事を口籠り呪文のように繰り返している。声に至らないひとり事は表現に至らない感情のマグマだ。時を追う毎に煮えくりかえり、あらぬ機会に爆発する。私は綺麗事を着飾った言葉でお祈りする。しかし祈りをまとめるや否や、自分の中で声にならない言葉を繰り返している。そうして声にならない堕落的感情のマグマが喉元まで溢れてくる。祈りの言葉として発声した綺麗事が偽りなのは、堕落的感情を沈める何の効果もないことからして明らかだ。私はふと思いついた。これを逆にして見たらどうなるだろうかと、、。祈りとは言えない感情の爆発の時間を敢えてつくるとどうなるだろうかと、、。感情を爆発させてのち、堕落的感情に主管されない言葉のみを自分の中に満たせないだろうかと、、。どこかの宗教のように経の一節をひたすら声明するなら、無の心の中にその言葉の生命が浸透してくる、らしい。その一節にどれほどの生命が備わっているのか定かではないが、比べて見て御父様のみ言葉生命はそれに劣るだろうか。問題は私達がみ言葉を消化し切れず、その生命を吸収するには至っていないということだろう。そうであるなら、敢えてみ言葉全体を咀嚼もしないで無理して呑み込まずに、条件的内容を備えて信仰基台を立てることができるみ言葉のみに集中しながら、実体基台という生活行動に以降することで、部分的ではあっても勝利を相続できて証しを立てることができるのではないだろうか。私達は欲張り過ぎてきたのかも知れない。御父様は私達に対して豚に真珠の如く、血と汗と涙の結晶であるみ言葉を毎日のように惜しみなく差し出して下さった。相対しない私達、眠りから覚めない私達に対して、それでも何時間にもわたってみ言葉を差出して下さった。しかし消化し得ないみ言葉が内的霊的生命の糧とはならずに、私の心魂は食当たりを起こしている。食当たりによる内的霊的嘔吐が堕落的感情の爆発だろう。糧になっていないみ言葉は取り敢えず吐き出すしかないかも知れない。私はどのみ言葉をもって生命の糧としたらいいのだろう。生命の糧を得て、生き生きと摂理に貢献できる私を立てることができれば、どれ程有難いだろう。どんな宗教よりも復活できたという証しが立つ。

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