2015年4月2日木曜日

今日の想い 841

三大祝福の一つとして個性完成とあるけれども、何をもって個性完成なのか。人格の完成?それは愛の完成?祝福を戴いて自動的に個性完成する訳ではないことは解かっているが、御父母様の血統圏として、仮にではなく実体的に入る過程どはどのようなものだろうか。ようするに私達(私だけ)は何もわかっていない。はっきりとした概念を受け取れずに、おそらく、、だろうな、、くらいの言葉の理解から出発しているものだから、私の中でみ言葉が実体化する過程の試練の困難さや、いつ終わるとも知れない路程期間に堪えられない。そのうちにおぼろげに理解していた内容が裏切られ、見えなかった御父母様や御家庭の情報までが問題として入ってくると、信仰を崩そうとする分子を内面に受け入れてしまって居座わらせてしまう。理解する自分の感性に問題があり、御父母様や御家庭に目を向けるその感性というフィルターに問題があることを既に忘れている。私が蕩減を払い切れずに宙吊りになっていて、御父母様に接木されて同じ血統圏に立つべき新生自分を、サタンに繋がっている過去の自分が盛り返してしまう。御母様が言われること、為されることはどうも違うようで、私は八大教本教材の御父様のみ言葉に立つことを是とする、と言うけれども、み言葉の本質を受け取れない状態で言葉の鞘だけを駆使しながら、わざわざ御母様を否定する理屈を構築しているにすぎない。御父様が地上実体としておられる間はみ言葉の理解が間違っていれば正して下さるだろう。しかし正して下さる御父様は地上におられない。ではどうするか。私達は未だ霊的無知であり、み言葉の本質を言葉を辿るだけで簡単に受け取れる訳ではない。だから正して下さる実体はどうしても必要であって、御父様と一体であられる御母様を地上に戴いている間は御母様に従うのが当然であり、御母様に異を唱える者は我こそ御父様にベクトルを向けていると信じて疑わないが、そのうちにそのベクトルが彷徨うようになり御父様とは異なる偽りの主人に向かっていたと後悔するのは明白だ。霊的無知だから所詮彷徨わざるを得ない。御母様を否定するのであれば、私達が戴いた祝福などあり得ないことになる。御父母様が真の父母様として一体圏に立っておられるから祝福を戴いた私が立っている。地上で親が離婚してどちらにつくかと言うような問題ではなく、私達の祝福は、そして重生した新しい私という自我は、御父母様一体圏を否定すれば成り立たない。絶対信仰、絶対服従は御母様に対して語られたみ言葉?どう頭の回線が繋がればそんな突拍子もない言葉が出てくるのか。唯物論が宇宙を科学という物差しのみで捉えているように、み言葉を言葉の論理のみで捉えて論理的機械脳に従っている。そこに愛が関与されず、よって心情を受け取れず、霊的無知のまま彷徨い続ける。

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