2015年4月22日水曜日

今日の想い 847

自分や自分の家庭の事で汲々としていると周りは見えなくなる。国政に与る者も自国の事、国民の事だけで汲々としていると世界は見えなくなり、世界との繋がりも切ってしまうような行動を取ってしまい、結局自国の運営も危うい状態になる。汲々とする状況は為に生きて自分を差出す歩みにはなっていない。汲々とするとは、個の中に、より個の中にその存在輪郭を狭めていって、どこまでもX存在に収縮していく。統一食口は逆になるべきだ。存在輪郭を広めていってどこまでもO存在に近付いていく逆のベクトルを用意しなければ、摂理とも関係を持てないようになり、御父母様との関係性も内的に距離を置くようになる。歩む中で問題が生じた場合、どのような態度を取るかがその問題を糧にするのか、或いは罠にするのかという私の主管が決定される。公的な位置の私を立ててその問題に対するのと、自分中心の位置でその問題に対するのとでは、内的霊的に受け取るものに天地の開きがある。自体意識、他体意識という言葉を知っているが、その意識が意識として働くのは問題が認識され問題を前にする時だ。おろおろする焦りが感情に於いて表出するのは私の中にカイン的存在が存在するからであり、カイン的存在が先ず顔を出すのはそれが私の内面で主導権を握っているからだ。一通りのカイン的感情が表出した後で、覚悟を決める必要を認識しようとするアベル的存在が顔を出す。私という内的存在がカイン一辺倒の存在なのか、アベル的存在がどれほど影響を及ぼしているのか、アベル的存在が内的長子権を復帰してカイン的存在を凌駕しているのか、自分が背負う内的霊的世界で神様が主導権を取れる世界なのか或いはサタンなのかを人それぞれで霊的に格付けされている。食口であればあの人はアベル的だとか、あの人はカイン的だとか口にしがちだけれども、そんな判断は人に宛がうものではなく、私の内面を観察すればこそ見えてくるカイン的存在、アベル的存在こそ内的霊的実体だ。ポジティブに捉えることがアベル的私だ、などという曖昧な見通しなど何の役にも立たない。ましてや楽天的な私などアベル的でも何でもなく、私の内面のアベル的存在もカイン的存在も無視して逃げて異空間に自分を置く、霊的なものも肉的なものも否定する幽霊存在だ。

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