2015年4月3日金曜日

今日の想い 842

生きて地獄、死んで地獄の環境でも、そこに天国の為の種を蒔き、天国の為の苗を植えていく。生きて蒔いて植えるように、霊界に赴いても地獄に蒔いて植えていくだろう。天国は愛の種から、愛の種は心情から、心情には犠牲の涙がつまっており、愛の種には犠牲の涙ゆえの為に生きようとする想いがつまっている。天国では地上の犠牲の涙による心情の太陽が輝き、心情の光が霊界を照らしている。天国では為に生きる想いによる愛の風が吹き、愛の川が流れ、愛の花が咲き乱れる。地上で環境創造して地上天国を築いて行くように、霊界でも環境創造しながら天上天国を築いて行く。生きて生活すればどれほど体を自然環境に晒されるだろうか。保育器の中で生活する訳ではなく、触れて晒され食べて晒される。あらゆる病の元が蔓延する中で生活せざるを得ないように、人また人の中で社会生活を営めば、どれほど小さな心魂を波打ちうねる社会環境に晒されるだろうか。山小屋の中で一人生活する訳ではなく、鋭く尖った感情や言葉、鉄槌のような重い感情や言葉が向けられたり振り下ろされたりしながら、そのなかで恨みを買ったり買わせたりしながら、そうやって社会生活せざるを得ない。しかし一方で病に罹ることで抗体ができるように、社会の不条理に晒されて、ある時は血気怒気を誘発され、またある時は汚いものに手を染めるとしても、たとえそうなったとしても心魂を強く大きくしていく為には不条理の波風に晒される必要がある。人は上に立てば立つほど、人の醜さにも、勿論それ以上に己の醜さにも直面する。醜さに直面することは堕落性を誘発されることではあっても、そこに新たに罪が発生することではないだろう。罪は既に無意識の領域に存在していて、それが表面化したに過ぎない。無意識の領域に蓋をしたままでいれば安寧に生活できるかも知れない。しかし無意識の自分こそ本質であり霊界に於ける実体だ。確かに堕落性だと思える不道徳な現実は、私にあるように責任者にもあるだろう。しかしそれを責めるほどの蕩減を私は払っていない。地上の私は社会の波風の中で、堕落的感情を誘発され翻弄されることに対処するので精一杯だ。私は所詮、一つの天法も犯さずに人生を歩み切ることは不可能だ。そうであれば、御父様が言い残された秘法を使うしかない。御父母様の地上での摂理や願いに合わせて実績をつくることだ。基盤をつくることだ。私には上の者をとやかく言える内的な余裕などない。ネットでは御父母様を本当に真の父母か否かを検証してからと思っている者達やら後継者問題に論議を交わしているけれども、自分の霊的生命の消え失せようとしている焦りを覚えないのだろうか。環境創造を手掛けて、それなりの基盤を備えたからそんな遊びに興ずることができるのだろうか。私もブログ日記としてアップしているけれども、これもあぶない趣味であって、興ずればあらぬ迷路に迷い込んでしまう。朝目覚めて、鳥のさえずりを耳に覚える余裕を失ってからどれほどの月日が経っただろうか。ここ数カ月、朝目覚めれば砂が口の中に残っているような感触を覚えて砂漠の中にいるようだ。基盤を築く以前の穴埋め蕩減の毎日が続いている。今日もまた地獄の現実からの出発だ。

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