2015年5月30日土曜日

今日の想い 854

伝道しなければならないと言われれば、わかってもいない原理やみ言葉でありながらも、人に伝えることに焦りを覚える。ビジネス展開しなければならないと言われれば、根付かせて成長させ収穫を得るほどの見通しも立っていないのに、形だけ何かやることに焦りを覚える。伝道にしろビジネスにしろ、それは本当の伝道でもビジネスでもなく、私達の中にプッシュされて焦りを覚えることへの対処でしかなく、焦りへの対処行動をしてみ旨を歩んでいるつもりになっている。天は私達にいつもプッシュしていると思い込んでいる。プッシュされながら、思考することも否定する僕的信仰観を脱するのでもなく、いつまでも喘ぎながらでしか先に進めないと思っている。しかし本当に天は私達がイメージしているようにプッシュしているのだろうか。私達は正直なところ辟易しながらも、それでも付いていかなければならないのだろうか。それはただただ重すぎるだけで、歩みの動機や力となることはないのではないだろうか。私達にやらされ感がある以上、逃げたいという潜在意識による意志の頭打ちが起こり、抑え込んでいたはずの堕落的はけ口へと意志が向いてしまう。結果罪悪感が残り、そのマイナス動機だけで更なるしなければならない念となるから形だけは願われている方向へ向かうものの、しかし所詮形だけであって結果を残すものとはならない。この堂々巡りが常に失敗の墓石を積み上げて背後に残してきたのであり、できないことが常習化してしまった。やらされ感からの脱却が急務だ。自分の意志でやろうとしていると言いながらも、堕落の自分であれ何であれ結局はやらされ感の溜りに沈滞している。御母様はマンハッタンセンターの礼拝で何回祝福家庭たち!と声を大きくされただろうか。恰も私達が眠ったままで目覚めないのを呆れてしまうかのように、声を荒げ溜息でもされるような表情をされた。調子よく返事はしながらもその場凌ぎであるし、やりますやりますと言いながらも自分の中でできないことを確認している。やらされ感のみならずどんよりしたあきらめ感にさえ沈んでいる。御母様はうなだれるような私達の状況を既に見通しておられるはずだ。どうしたらこの暗雲立ち込める層を突き抜けて、青空広がり遥かなる高次の霊界を見通せる成層圏に突入できるだろうか。

2015年5月27日水曜日

今日の想い 853

一般的な視点に立てば統一教会は分裂教会の様相を呈している。しかし絶対信仰絶対愛絶対服従の私の位置にに立つなら、口が裂けても冗談にでも分裂教会とは言えない。グループ派はグループ派で自分達が正しいと言い、七男派は七男派で自分達が正しいと言っている。現教会はどうかと言うと、自分が正しいと言うのであれば(御母様を中心とする)教会派なのだろうけれども、教会の中には自分達が正しいという旗を掲げずに、正しいか正しくないかという問題以前に御母様を支えたいという絶対信仰絶対愛絶対服従の位置に立った者達もいる。教会に関するブログ、多くはグループ派や七男派だが、それらが乱立しているのはそれぞれの視点、すなわち正しいか正しくないかという分立是認の位置に立って見る視点からそれぞれの言い分を上げている。道義的感覚から、それを良心に従ってという言い方をしている場合が多いが、道義的感覚からの善悪判断、それからみ言葉解釈からの善悪判断、あとは成り行きに任せてしまった言い訳めいた善悪判断という者達もいる。それはどこの派に身を置くとしてもそれぞれにそういった者達はいる。どこにも身を置かず御父様自体を否定してしまったいわゆる反対派の者達も、知情意に於ける何某かの判断がそうさせている。教会では反対派が出るたびに彼等がどう間違っているかを説明しているけれども、説明を受けなければ離れる者達は所詮いつかは離れていく。絶対信仰絶対愛絶対服従に立つなら正しいか正しくないかは二の次であって、御父母様の願いに応えたいという心情動機があるかないかが問われている。ひょっとしたら袂を分けていると思われるそれぞれの派の中にも、心情動機あっての行動としてそうなっている者もいるかも知れない。教会の中にも自分に都合がいいから留まっていると言う者達がいるように、御父母様の願いに応えたいという想いからそういう立場を取っている者達もいるはずだ。そうなると愛の競争であり愛と愛の戦いだ。正しいか正しくないかの戦いを繰り広げているが、誰がより御父母様を愛するかという戦いこそが正念場だ。論理的に説明できるかどうかなどどうだっていいとまでは言わないが、論理に主管されることは悪魔アフリマンに主管されていることだ。霊的に見るなら悪魔アフリマンとその手下達の食口への働きかけは尋常ではない。しかしどれほど悪魔連合が中枢に攻めてくるとしても、御父母様は勝利されて一体圏を確立されているため破壊することはできない。遅かれ早かれ分かれたものは、より心情を中心として、より強固に、一つになっていく。御母様は子女様方が必ず帰ってくることを見通しておられる。

今日の想い 852

私の中に蛇がいる。その蛇が内側から私を誘惑する。蛇は先ず目を誘惑してくる。蛇は目を、見るに良さそうだと判断させて、ついに目は見てしまう。誘惑に堕ちた目は蛇とくるんで手を誘惑してくる。手をそそのかし、触れるに良さそうだと判断させる。ついに手も誘惑に堕ちてしまい触れてしまう。耳は目のいいなりであって、目の向く方向に耳も向かわざるを得ない。口と舌と喉は手の触れたものへのより深みの感触、堕ちた愛の味を知りたい貪欲さに駆られ一体となって味わいつくそうとする。目が酔い、手が酔い、口舌喉が酔い、蛇は酔って見る深い夢と感触の中でその目的を遂げる。蛇が目的を遂げると酔いは一気に冷め、夢は霧散してしまう。放った衝動だけが結果としての痕跡を残す。誰の中にも蛇がいる。その蛇は生殖器に居座ると次第に誘惑を始める。蛇は蛇を求めて誘惑を始める。雄としての蛇は雌の蛇である女性の生殖器を求めて誘惑を始める。人は感触への欲望を満たさんとやむなく行動していると思っているけれども、それを操り目的を達成させようとする蛇がそうさせている。生殖器自体の意志ではなく、そこに居座る蛇がそうさせている。そうやって蛇が蛇を求めながら蛇の王国、蛇の世界を作り上げてきた。創造本然であれば神様の理想に酔い、真の愛に酔うべき人間が、堕ちた性に酔い、アルコールに酔いドラッグに酔う堕落人間の姿が地上にある。蛇に誘惑されるがままにそれらに酔いしれたいと自覚すれば、理想に酔い真の愛に酔いしれる高次への自分を放棄してしまう。自体自覚の私が他体自覚の私へと生まれ変われる、すなわち血統転換の重生への実感は自体自覚の自分の完全否定から絶対信仰絶対愛絶対服従の私を絞り出し、引き出してその私を生きることで得られる。多くの食口は重生実感などあり得ないと当然のように思い込み、さして落ち込まないように、しかし理想へと飛翔する訳でもなく暮らしている。そう、生きるのではなく暮らしている。与えられた、なけなしの夢に満足しながら、飼い殺しにされている。確かにギリシャ文明に於いて肉体輪郭の美しさに目覚めた人類だが、本来の目はそんな地上的輪郭や色合いに満足してしまう目ではないはずだ。輪郭や色合いの奥を見通し、その核に至れる程に見通せる目だ。誘惑に陥れば見える範囲の楽しみを最高の理想だと結論付けてしまい、更に高みにある神様の理想、人間本来の理想を足蹴にしている。今日まで蛇は先ず目を誘惑してきた。まだ見ぬ事実を確認するのではなく見える現実に溺れていった。目の焦点を現実に合わせて生きれば、現実が霊的には幻覚を見せられていることだという事実を否定している。現実を事実以外の何物でもないと信じ切っている。目が神様の理想を見上げようとすれば、目は現実から逃げるのではなく、現実の正体を知り現実を主管し始める。

2015年5月16日土曜日

今日の想い 851

侍るとは自分の主義主張、自分の考えを越えて、時にはそれに反して侍るのであって、侍り方の考えの違いによって袂を分かつ等という言い方は本来あり得ない。侍るのも考えあってのことだと思っているなら、心情を越えたところに考えがあって考えが心情を見下していることになる。それは偽りの主から来るものでありながら自分の良心の声だと信じて疑わず、偽りの自分の主義主張を通すことを許している。御父様は共産主義者からタイムズを取り返したと言明されたけれども、共産主義者の良心らしき信条も、グループ派の言うところの良心も、そこに違いは無いからそう言われた。御父様が、「良心は両親にまさる、良心は先生にまさる、良心は神様にまさる」と言われたその言葉だけを強調して権威を振りかざしているが、先ず私達が認識しなければならないことは御父様が言われるところの良心を私達は取り戻してはいないということだ。自分の良心を口にするのであれば、先ず心と体の戦いを終結した心身一体宣言が為されなければ、良心云々とは言えない立場だ。神様に直結している良心を取り戻していないにもかかわらず、自分の信条を良心だと言って憚らないのは共産主義者だ。自分の蕩減を払って清算して、息子娘と認められる位置で侍って、心情を相続して神様と一体となった立場で、初めて自分の良心を認識し、良心の声に従うと口にできるのであって、神様と一体圏にあられる御父母様の声に従わない者達は戒めを守らなかったエバと同じだ。神様の戒めに反して、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた木の実を時を待てずに取って食べて霊的堕落したエバのように、神様の位置にある真の御父母様から見るなら現代のサタンは生殖器である善悪知るの木の実から今度は良心もどきの善悪判断の木の実に代えられて、エバと同じように時を待てない者達によって判断の木の実は取って食べられ、現代の堕落は知的部分で繰り返している。天使長ルーシェルから、今度はルーシェルの配下にあった悪神アフリマンの誘いに応じた者達がグループ派だ。共産主義者が悪神アフリマンのずば抜けた論理的知能を現わしたように、グループ派もアフリマンの論理的知能を現わし論理第一で誘いをかけてくる。悪神アフリマンの誘いに応じた知識層の上の者達は、心情という論理を越える霊的概念を受け取ってはいない。

2015年5月14日木曜日

今日の想い 850

私達の信仰は人間に対するものではない。真の父母に対して人間的な判断をしてはならないように人間的信仰に陥ってはならない。ある意味先天時代の統一信仰は、御父様の言われることに絶対服従するという人間真の父母信仰だったと言えなくは無い。御聖和された今、口を開かれる人間実体としての御父様はおられない。私達はみ言葉を訓読しながら、それでも御存命時の御父様の面影を彷彿させながら読み進めているが、明らかに御父様という人間実体を知らずに信仰を持たなければならない人間が地上を覆う。地上で生活しておられた人間実体イエス様を知らず、聖書だけを頼りにしてキリスト像を植え付けることでキリスト教を発展させてきたように、統一信仰もまたそのような路程を辿っていく。教会は混乱して、信仰のベクトルをどのように方向付けたらいいのか誰もが迷っているけれども、人間実体としての御父様を知らない二世三世が増えてくれば、所詮どの派に従うにしても一世達の人間真の父母に留まる信仰では頭打ちだ。私達の混乱は全て人間真の父母信仰の弊害として現れている。御父様御自身が真の父母の名を通して祈祷され、御父母様が真の父母の前に敬拝しておられた。御自身が真の父母であられるのに他の別の存在としての真の父母が恰もおられるように侍られているようで不思議に思ったけれども、祈祷され、敬拝される時の御父様は縦的に分離され、人間御父様から真の父母の位相に対しておられたのであり、私達の前で話され対する時は人間御父様と真の父母位相一体の御父様として立たれた。後天時代の信仰は人間御父様ではなく、位相を上げていかれた霊的実体としての御父様に侍るのでなければならず、人間実体御父様への信仰に留まったままではありとあらゆる派閥が生じざるを得ず、霊的実体であられ実体み言葉であられる御父様からは離れざるを得ないだろう。しかし両信仰の在り方が相反するものではなく、道徳教育の中に精神教育霊的教育がエキスとして抽出されるように、人間実体御父様信仰から実体み言葉御父様信仰が芽を出す。私達は未だ霊的無知であり、霊的事実について知らな過ぎることを度重ねて申し置きたい。長子権復帰、父母権復帰、さらに王権復帰というのも霊的言葉であり、真の父母という言葉も霊的言葉であり、人間真の父母信仰では真の父母の本当の価値はわからない。真の父母の血統圏にある私達祝福家庭だが、それは生理学的血統をいうのではなく、地上血縁を越えた霊的血統をいうのであって、霊的血統に繋がっている、霊的に真の父母から生まれ出た、という内的霊的理解をどのように深めていくかということだが、その理解は頭に拠る論理的理解を言うのではなく心情理解、心情相続をいう。

2015年5月9日土曜日

理想を考えてみる

金の切れ目が縁の切れ目となれば、人間愛にもとる人だと判断するだろう。それでは理想の切れ目が縁の切れ目となると、それは一体何にもとるのだろうか。この設問を誰に対してするのかと言うと、自分も含めた食口に対して問いかけている。復帰された当時の、理想に輝いていた自分をどの辺りまで継続できただろうか。今もなお同じ理想を掲げ、その理想に燃えながら歩んでいるだろうか。おそらく多くの食口が理想を失っている。正しくは理想としていたものを失っている。復帰された当時はある理想的気分に酔っていた。今日明日とは言わないまでも、近い将来にその理想は地上に実現されると、実現される理想を先取りした優越感も相まって熱い想いで歩んでいた。しかし描いていたものは本質的理想ではなく、イメージできる程度の形をもった、理想らしい理想もどきに過ぎなかったということだ。よって、理想もどきの切れ目が御父母様との切れ目、教会との切れ目ということになる。私達が理想としていたものは尽く覆されてきた。個人的に掲げていた理想、家庭的に掲げていた理想、教会としての理想、全ては壊れ、さらに理想の実体であるはずの真の御家庭ですら理想とは程遠いという判断を下さざるを得ない状況だ。しかし私達が捉えていた理想はみ言葉の理想、御父様の理想と同じだろうか。私達が捉えていた理想は自分のイメージに過ぎず、理想という本質ではない、形としてだけの理想もどきを敢えて否定もされずに理想としてきた訳だが、理想もどき主義から御父様が捉えておられる理想、本質的理想主義を掲げなければ教会との関係も、さらに御父母様との関係も切らざるを得ないだろう。理想を形のイメージのみで捉える理想サナギを脱いで、本質的理想を捉える理想成虫へと脱皮する今の混沌期を過ごす者だけが、新しい天一国の住人として新しい世界に羽ばたいていけるようになる。それは自体自覚から他体自覚への移行であり、個人的家庭的私から氏族的民族的私を用意することであり、昼の私から夜の私へと意識上昇、アセンションすることであり、地上的愛から霊的な真の愛に生きることだ。愛も、理想も、霊的な全ての事柄も、枷に嵌められたイメージという堕落的観念ではなく、御父様が保持しておられる創造理想としての概念へと解き放たれなければならない。理想の本質を尋ねていけば、それは霊的であり、霊的であるということは心情的だということだ。理想の対義語は現実であり、ひとたび理想から現実に移ってしまえばそれは既に理想を抱いているとは言えない。私達は現実の中に足場を移そうとし、それぞれが理想もどきであっても掲げて歩んできた歩みを一区切りしようとし、残された余生を静かに過ごそうと波風立たない場所を探そうとし、そのように理想を求める翼は既に閉じて休めている。それなりに人生に掛けてきた内容の結実を収穫するに留まっている。「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか。」(創世記16章)とサラが言ったように、老い先短い一世達は、理想の本質という種を身ごもることは既にないだろうと内心思っている。み旨に燃えて御父母様の願いが私の中で生きているという実感は既に遠のいている。しかし神様が生きて働く一つのシナリオがここにある。金融というお化けクジラによって実体経済は今確実に壊れようとしている。金融バブルという消えてしまう幻想シャボン玉に気を取られ、翻弄されているうちに、実体経済の足腰は弱まり国として立てないほどだ。今の社会構築がへしゃげてその状況でも生き延びれるのは、献金に追いまくられ生活が困窮しても生き延びる力を得てきた日本食口をして他にないだろう。いつの世の変遷期もスクラップ&ビルドであって、ビルドされてからスクラップされた訳ではない。スクラップされても生きて芽を出す理想の種を保持した者達が用いられてビルドされる。もしそうであるなら、私達は理想の種を今温め続けていればいい。摂理に合わせた社会状況が、理想の種を保持する食口を必然的に表舞台に立てさせる。

2015年5月1日金曜日

今日の想い 849(祈祷)

訓読を一区切り終えて、私は独り言のようにポツリと口に出してしまった。み言葉を訓読すればするほど裁かれてしまうと、、。妻も私の言葉に静かに頷いた。お互いの無言の時間が暫く流れて、それでも祈りで締めくくらないと天との関係を断ち切るようで、妻のベッドから降りて足を畳むと祈祷姿勢を整えた。しかしどうも無理だと思って、妻にお祈りするよう声をかけ目くばせした。妻は頭をゆっくり起こしながら不満そうな視線を私に返したが、それでも頭を垂れるとお祈りを始めた。病気以来妻は私以上に力のないお祈りをする。病気のこと、子供のこと、どうにも希望の一筋の光さへも見出すことができずに、落胆の気持ちがどうしても力のないお祈りになる。祈りは言葉では感謝に次ぐ感謝の連呼で繋いでいる。しかしそれが偽りであることを本人も私もよく知っている。現実に対する偽りが非礼だと言われれば、祈りは天に対する呪いの言葉にしかならないだろう。確かに現実的には偽りの連呼であるようでも、未来には感謝の気持ちを抱く私の言葉として、祈りは感謝の言葉を口にする。だから偽りではない。私の未来からすれば偽りではない。問題は現実逃避のように思える祈りではなくて、その言葉を口にするのに力が込められていないことだ。現実の今の堕落的私を強く強く否定して、必ずや成就する祈りの言葉として力強い感謝の言葉を連呼すべきだろう。脳裏を生じては逝き、生じては逝く、百万憶万の堕落の思いの言葉より、それらを否定しながらそれらを超える御父母様への感謝の言葉で上書きしていく。希望が神様と共にあるなら、悲観はサタンと共にある。悲観の気分としてサタンはひたひたと、さらしに水が浸みて広がるように私の心魂を侵食していく。現実の中に生きる限りはサタンの主管圏から免れることはないだろう。しかしサタンに主管された現実は、生きて歩む下水平の一次面に過ぎないはずだ。下水平に留まる限りは地上地獄だ。この下水平の一次面に隙間を生じさせることができれば、その隙間をして一気に流れ込み上水平へと次面を上げていく。その隙間こそが祈りだ。使い古された言葉の鞘を口籠るだけの言葉の連なりではなく、生きたみ言葉として力強く喉を通過する祈祷だ。破裂音に満ちた力強い韓国語が運勢をもたらすように、力強い生きたみ言葉こそが神様の堕落的私を施術するメスだ。祈祷は力強くあるべきだ。この喉が裂けるほどに力強くあるべきだ。朝の一日の出発は特にそうだ。