2015年10月10日土曜日

今日の想い 885(原理の為の愛ではなく愛の為の原理)

み言葉は訓読に留まるばかりではだめで、み言葉が生きて働いてこその訓読とならなければならないのであり、訓読目標の為の訓読など、生命を入れるための言葉という器をひたすら集めようとしているにすぎない。器には生命が入っていながら、わざわざ中身の生命を無視して空の器ばかりを集めるのは、自分は信仰者だと納得したいという願望を叶えるだけの自己満足だ。量をこなせば愛の人格者になれると思わないほうがいい。質を重要視せずに量を集めることだけに偏るのはカタブツ者で、食口にはカタブツ者、融通の利かない石頭の方が多い。キリスト教原理主義者、イスラム教原理主義者、そして統一教原理主義者だ。学んだ原理は確かに分別する原理、すなわち刀だが、刀を振り回すことは統一ではなく分断だ。統一は原理でするものではなく愛でもって統一する。伝道も原理でするのではなく愛で伝道する。確かに愛で堕落したから愛を退けて原理原則の神様として復帰してきたのは事実だ。しかし真の愛が立つための原理原則であり、真の愛が立てば原理原則で支配されるものではない。原理原則は真の愛で主管されるためのものであって、原理で支配されて真の愛が立つのではない。み言葉には愛という言葉が山ほどあるし、すべてのみ言葉は愛を汲み入れている。私達は訓読を通して、愛という言葉を何千回何万回も口にしながら、しかしそれでも愛の実感を得ずに生活している。朝何時から訓読会、夜何時に祈祷会、訓読のページノルマ、献金ノルマ、今月何人に原理を伝え何人伝道するか、祝福さえも何カップル祝福したかという数字ノルマ、そういった活動は愛の動機があるのだろうか。為に生きる想い、愛したいという想いが流れ込んでいるのだろうか。原理的に活動することが愛だと思っていたけれども、それは愛ではなく言われた通りに歩まなければはじかれてしまうという不安感、恐怖感が動機ではなかったのか。不安と恐怖である程度自分を奮い立たせることはできる。義務感、使命感の背後にあるものは愛ではなく不安と恐怖だ。しかしその歩みは形だけの歩み、原理という型に嵌められた愛不在の歩みで、復帰基台摂理準備に留まる犠牲ばかりを後天に入った今でも供えている。愛の動機、愛の想いなくしてどうして愛の犠牲を供えることができるだろうか。犠牲だ苦労だと自分を追いつめたとしても、それは愛の犠牲とはならない。人間の尊厳を否定する犠牲、精神を捨てる犠牲は自己否定することではなく、為に生きるという愛の犠牲精神によってのみ霊的高みに飛翔することができる。

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