2015年10月25日日曜日

今日の想い 889

エデンの園にある生命の木はアダムの肉体を意味し、善悪を知る木はエバの肉体を意味している。エバを誘惑する蛇が何かというと、男性の生殖器を意味している。蛇、すなわち男性のその器官がエバを誘惑して善悪の実、すなわちエバの生殖器を取って食べたのであり、男性をまとう本質こそが天使長ルーシェルであって、そうなると蛇=天使長ルーシェルとはならない。しかし彼は堕落の張本人であると明言されているように、或る男性をまとっているけれどもエバを堕落させるとき、男性のその器官に天使長自身の存在を集中させている。この世の男性、堕落人間は自分の妻より美人がいれば普通にその器官が始動するのであり、その場合自分の中の天使長的存在をそこに集中させていると言える。天使長ルーシェルはその器官をして堕落させたのであって、蛇=天使長ルーシェルと理解しても問題はない。全ての男性は自分が毒のある蛇を持っていることを認識しなければならない。その毒は相手を霊的に殺し、自分にもその毒がまわる霊的自殺行為になる。妻以外の女性に対しては天使長の位置に立つのであり、その器官が女性のそれを願うようになれば立派に堕落天使長だ。蛇が善悪の実を取って食べると五感は興奮して悦楽の境地に向かう。人間は五感の感性が備わっているがさらに霊的五感があるのであり、それを開く第六感の中心がそこ、生殖器にある。男性は五感の悦楽を欲張って、蛇の赴くままに複数の女性との関係を求めていくけれども、五感の悦楽と引き換えに第六感の感性を犠牲にしている。私達は妻以外との関係を厳しく禁じられているが、それはときに男性にとっては決して容易いことではない。しかし五感を犠牲にしてでも霊的五感を開く第六感を立てなければ、人間はどこまでも霊的無知のまま居続けることになる。宗教が性を遠ざけ感覚の喜びを否定してきたのは、そうすることで神霊聖霊を感受できる感性を開く為であった。しかし御父様のみ言葉はその次元に留まらない。生殖器に対して、あるいは生殖器を中心として絶対信仰絶対愛絶対服従せよと話される。それは己が欲望のままにその器官を使えという言葉ではもうとうなく、神様の生殖器を絶対信仰絶対愛絶対服従するのであり、神様と私人間の生殖器をひとつにしろという言葉だ。

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