2015年10月11日日曜日

今日の想い 886(冷たい無表情の神様)

自分を中心とする社会の人間関係を考えたときに、天の父母様を親とする兄弟姉妹であることは先ず基本だというのが私達の認識だ。家族だという思いが強ければ強いほど関係性は強くなり、伝道する確立も高くなると思っている。友達に連れられて最初に教会に入ったとき、「お帰りなさい」と声をかけられどれ程私の心が捕らえられたことか。誰々兄、誰々姉と呼び合い、教会は家庭以上の家庭だった。み言葉に感動して入教したんだと自分でも思い込んでいるけれども、よく思い出してみればそれまで考えたことも無かった原理の壮大な世界観に圧倒されたのであって内容を理解して感動した訳ではない。釣り針で魚を釣るように、見たこともない満面の笑顔で「お帰りなさい」と声をかけられた時点で、私の心に釣り針は引っ掛けられていた。そして引き寄せられ入り込んでいく自分の言い訳として未だに理解しているとは言えない原理云々を持ち出しただけであって、「お帰りなさい」こそが私の心を引っ掛ける愛のツールだった。もちろん兄弟よりは若い姉妹のそれに引っかかったことは言うまでもない。だから原理で伝道するのではなく愛で伝道するというのは確かに頷ける。入教してから43年の歩みは、摂理摂理の厳しい路程に喰らい付いてきたけれども、釣った魚に餌はやらないの諺の如く、雑巾のようにボロボロになっても放置されながら、餌を待つ魚から自力で復活する存在へと化けることを要求された。子供を崖から突き落として這い上がるのを待つ、子の泣き叫ぶのにも動じない獅子と同じ感覚を神様に見てきた。どれだけ神様、神様と泣いて寄り縋っただろうか。しかし一度たりとも泣きの一手で動じる神様ではなかった。愛の神様というけれども、私の思っていた慈しみの愛とは異なる、冷たい、無表情の神様だった。私達は神様がどうもわからないと、神様を認識していないのではない。実は私達の思いたい愛の神様とは異なる厳しい神様を否定して見ないようにしてきただけだ。私達は不安で歩むのではなく、厳しい神様を直視して畏怖の念で歩むべきだ。御父様がどれほど厳しかったか。御傍で仕えれば下心のある不安など吹き飛んで、純粋にその厳しさに畏怖の念を覚え、身も心も捧げようとする感情を抱く。不安感情は自分を守ろうとする個人的感情だけれども、畏怖の念は自分を亡き者にしてでも願いに応えたいと思えるような個人を超えた全体的感情をいう。個人的感情はどこまでも窮し、全体的感情はどこまでも広がっていく。私達は今まで結果を見ずとも許されてきて、厳しい神様であることを直視せず、安らぎを与え慈しまれる優しい神様のイメージだけに執着するから、反対派にお花畑呼ばわりされてしまう。事実どれだけ厳しい御父様だったか。どれだけ日本食口に対して容赦なかったか。私の推測かも知れないが、厳しさの中にも生き延びて、回り道をしてでも、あるいは別の観点からでも御父様を振り向かせようとする狡猾さやしぶとい意志の芽生えを願われたのではないか。日本食口に対して、理不尽なことが多いのを見て取るとそれ以外にはないと思っている。御父様は日本を厳しく、ある意味奴隷の様にプッシュしながら、どこかでそのノルマをものともしない大人物が現れることを願っておられたはずだ。お帰りなさいと声をかけられて引っ掛かるのは確かにおめでたいお花畑人間だ。当時復帰された私達お花畑人間はそんな簡単な愛のツールで引っ掛かるが、今はそうはいかない。訓練された私達はもっと手の込んだ氏族復帰ツール、伝道ツールを手にしなければ、どうして国を料理し、世界を料理することができるだろうか。

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