2015年10月21日水曜日

今日の想い 888

統一教会から家庭連合に、、名前が変更になっただけのことなのだろうか。入れ物が変わっても、あるいは表示を変えても、中身が同じなら、変わっていないと判断されて名前を変えることで誤魔化したと思われてしまう。旧統一教会ですと公言して名前を挿げ替えても、相変わらずあの統一教会と呼ばれてマイナスイメージを受け継いでしまうことは明らかだ。どうしたらいいのか。先ず認識すべきことは、統一教会の構成は教会員であり家庭連合の構成は祝福家庭ということ。教会員イコール祝福家庭だという私達の感覚を先ず壊す必要がある。教会員以前に祝福家庭であるという認識を強く持たなければ私たちの中身を変えることはできないし、家庭連合だと名称を変えただけだということになる。統一教会の柵(しがらみ)を越えて、私達祝福家庭の自由と責任に於いて変わる必要がある。ある意味統一教会という組織に利用された祝福家庭だったが、今度は祝福家庭が家庭連合という組織を利用する。祝福家庭の繋がりを利用して環境を創造していき氏族を復帰していく。今のところ名称が変わっても組織体制は引き継がれたままだが、遠からず教会そのものである今の組織体制は変革されていくはずだ。教会イメージが強い者は組織が崩れて分散していくと見るかもしれないが、縦社会組織から家庭連合という連なり組織に変革していくことになる。立てられた上に立つ者が中心であり父母を代身する者でありアベルだという固定された認識から、連なりの中に中心的存在をそれぞれが見出し下から中心として支えていく。よっていろんなグループが生じるだろうし、それぞれ輪が広がったり狭まったり、引っ付いたり離れたりを繰り返しながら変動的であり、しかし全体として真の父母を中心軸として向かう一大祝福血統圏が地球を席捲していく。祝福は受けたけれども教会に距離を置いてしまい、摂理から離れて生活に没頭していた者達も、それ相応に祝福の恩恵に与れるために閉ざしていた芽を吹き返すようになるだろう。同じ食口とてみ言葉理解の差異がある。心情基準の差異がある。得手不得手があり実力の差異がある。それを無理矢理信仰有り無しの秤にかけられてしまえば最終的には誰も残る者はいない。受動的であるということは、別の表現にすれば囲われ支配されているということだ。能動的であるということは、別の表現にすれば所有権を得て主管性を復帰したということだ。受動的であり続ければ染み込んだ教会体質から離れられない。家庭連合はお上から流れる指示に従う組織ではなく、それぞれの祝福家庭が能動的に活動するためのツールだ。そういう認識に立って始めて中身が変わったと言える組織になれる。

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