2015年10月4日日曜日

今日の想い 883(意志のない鶏)

子供の頃、田舎の家で鶏を5羽ほど飼っていた。でも卵を産み始めてから立て続けに蛇に喰われてしまった。どんなに防御しようにも隙間だらけのあばら家では仕方なかった。家の中の垂木にすら横たわっている蛇がいたくらいだからどうしようもない。鶏は卵を産み続けるうちは人に大切にされる。しかしそのうちに鶏が卵を産み続けることを人は当然とみてしまう。鶏はある時から卵が産めなくなることを知らないが、人は知っている。知ってはいるが無視したまま当然のこととして卵を収穫する。そうしてそのある時X-DAYを迎える。その時鶏はどうなるのか、人はどうなるのか。意志のない鶏はその運命を人に預ける。意志のある人は鶏の価値をどう見てきたかによって鶏の運命を決定する。殺すも生かすも人の価値判断に因っている。与える鶏と受け取る人の関係は、意志を持たない存在と意志を持つ存在との関係だが、意志を持つ人間は意志をもたない鶏の意志をも受け持つ責任を負っている。そうでなければ収穫し食べるはしから負債を溜め込む。あらゆる万物と人間との関係は、意志を持たない万物の全ての意志を引き受ける責任を負っている。卵をひたすら収穫してきた人は鶏の意志や想いも自分の意志や想いに加えるべきだ。私達は万物のみならず多大な心魂の供与も受け続けている。そこには万物や環境や先祖達の犠牲の、あらゆる意志や想いを代弁する私にならなければ彼等は讒訴するだろう。意志を持たない彼等の讒訴は、ときに意志を持つ人間の讒訴とは異なり容赦ない。自然災害の多大な影響や感染によるパンデミックは意志を持たない存在の讒訴の表現だ。万物に対する感謝は万物を擬人化させて感謝するのではなく、正しく万物を主管することが万物への感謝だ。万物は正しく犠牲になれるように創造されている。卵は食べられることだけがその創造目的なのかどうか。あらゆる可能性が秘められていて、それを引き出すことで浮かばれる。すなわち正しく犠牲になれるよう導くことができる。私達は仮にも万物の主管主として、秘められた万物の可能性を一つでも二つでも聞き出せないだろうか。原理を通して万物に対する人間の位置を知った者として、この世の人々よりもその可能性を聞き出せないだろうか。私達はどれだけ罪を犯さないように生きるとしても、生きて地上に歩む以上何某かの犠牲の上に生きている。日本は献金という卵を産み続けてきた。教会活動にとって日本からの月々の献金は当然になった。しかし或る時X-DAYを迎える。それは日本食口の意志かも知れないし、あるいは意志に反して起こる自然の讒訴としてかも知れない。私達が万物の可能性を引き出せないように、教会組織は献金以外の日本の可能性を引き出せずにきた。日本が母の国としての意志が本当にあるのなら、日本食口は声を上げるべきだ。意志をもたない鶏の様に、目をつむったまま教会組織の意志に悉く委ね続けるのは母としての自らの位相を蔑ろにしている。日本の供与してきた全ての犠牲とは言わないが、こと献金という犠牲の供与に対しては、意志のない鶏として産み続ける卵を収穫する感覚と変わらない。教会もまた、母の国という位相を蔑ろにしている。

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