2016年3月9日水曜日

今日の想い 908

人は誰も現実と理想の狭間で生きている。理想実現への信仰が弱ければ地に足を埋めて身動きできなくなる。逆に信仰が強ければより理想へと足場を進める。足を埋めて身動きできなくなるのは良くないが、しかし足はしっかりと大地を踏みしめるべきでそれでこそ理想への階段をステップアップできる。抱いている理想が現実逃避によるものだとそれは理想ではなく仮想翼を持たせた妄想に近い。精神は翼を持っているけれども心魂は持っていない。理想に向かう段階的目標をクリアしていく以外ない。理想と妄想が全く異なるものであるように、信仰と現実逃避を見分けなければならない。堕落性の厄介なところは信仰だと自分に言い聞かせながら実のところ現実逃避している場合が往々にしてあることだ。信仰は実を結ぶけれども現実逃避は実を結ばない。信仰生活しているといいながら実を結ばないのであればそれは現実逃避ではないかと一度立ち止まるべきだ。現実に主管されるのではなく現実を踏まえて主管するには現実と理想をしっかりと両の手で捕まえておく。それは私という存在が現実と理想の架け橋、現実と理想の仲保となることであり、具体的には現実に対して喜びを得られる理想への衝動を捕らえ、一方で現実的実りを理想への供犠として差し出せるものを見出していく作業が必要になる。それが「現実に流される」から「現実を踏まえる」への転換点になる。御父母様が勝利宣布宣言を為されながら真の父母としての使命を全うされたことは、天と地の架け橋になられて、現実である堕落圏の地上に人間本来の喜びである天の創造理想を差し出してこられたと表現することもできる。であれば私は現実的実りを理想に対する供犠として差し出すのがカインの正道だ。それを御父様が分かりやすく説明して下さったのが報告祈祷だ。供える現実的実りがなければ報告祈祷はできない。しかしその為には理想が私の理想として衝動を覚え続けることが必要で、み言葉訓読しながら衝動を覚える熱を私の中に見なければならない。私が燃えているかどうかだ。御父母様が差し出してくださった理想に対してほぼ理解していないのは霊的無知だから当然といえば当然なのだが、勝手な認識で妄想的に捉えたままだと熱するのも早かったが冷めるのも早く、理想はますます遠のいていく。私という現実と理想の架け橋を分断することになる。

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