2016年3月12日土曜日

今日の想い 909

五感では感じ得ない存在を認識する場合であっても、五感から受け取る個々の情報を総合的に捉えて全体像を認識するのと同じで、霊的五感による情報を総合的に捉えながら霊的存在の全体像を認識していく。私達食口は神様という存在を全く否定しないだろう。存在されて当然だと認識している。それは五感から受け取った情報からではなく霊的情報、それは聖書も含めてみ言葉情報からくる霊的情報なのだが、それを総合的に捉えて神様の全体像を認識している。ここで厄介なのは人間が霊的無知であり霊的五感が啓発されていないにもかかわらず、み言葉という霊的情報で把握しているために霊的感性による実感的内容は将来的に受け取れるという信仰を否定してしまえばその認識は一変に霧散してしまうということだ。霊的認識のほとんどは信仰生活が長いとしても未だに信仰を土台にしたままだ。天の父母様という新たな概念を御父母様は私達に提示された。その概念を今の自分は理解できないというのは当然なのかも知れないが、それは有り得ないと否定してしまうのは実に愚かな判断だ。御母様はどうも霊的に見えていないと、御母様を霊能者の力あるないの基準で測ってしまうという愚かさ、霊的無知にもほどがある。霊能者の位相とははるかに異なる御母様の位相を地上という平面基準で捉えることの大きな間違いが全く分かっていない。地上は一つの次元ではあるけれども霊界は多次元にわたっている。霊能者が霊的に見える次元と同じ霊的次元におられる御父母様ではない。霊界が一つの次元のみであるなら霊能者によって救われるはずであり真の父母など必要ない。結局は霊的事柄の何一つ分かってはいないらしい。そんな程度で霊界に移籍すれば大混乱の自分を見ることになる。唯物主義者のように霊界などないと結論付けて肉体を脱げばその認識故に霊界にすら入れず、地上にしがみつく為に最大恐怖の体験である死を限りなく実体験し続ける幽界をお化けとして彷徨うことになるが、霊界の実情を知らないにもかかわらず自分が勝手に思い込んだ霊界認識のまま肉体を脱げば、真の愛の救いの光の届かない薄暗闇で御父様をひたすら探しまわることになる。限定的霊界認識は極めて限定的な救いにしか与れない。肉体を脱いでしまって信仰を立て直すことなどできないからだ。み言葉を理解しているという驕りを捨てて御母様の言葉を信仰として捉え理解できるよう内的努力を試みるべきだ。天の父母様がおかしいと御母様を否定する前に、御父様の夜の神様、昼の神様は当然理解しておられるのかどうか、、。それも理解できないのであれば御父様をも当然否定すべきだがそうは思えない。ならば理解できない論理故に御母様を否定しているのではなく感情で既に否定している。

0 件のコメント: