2018年8月10日金曜日
今日の想い 992(固定認識を先ずとくこと)
同じ言葉でも人それぞれ理解と認識は異なっているし、異なっているから人はそれぞれ個性真理体として地上で独立している。しかし異なっていれば一つになれないかというとそうではなく、統一は融合ではなく統合であって、方向性を同じにすることで一つになれる。言葉の理解の方向性を同じにすることでその言葉の一つの概念にたどり着く。神様、霊界、救い等という目に見えるでもない多分に信仰を前提にした言葉は、神なら神の定義をどれほど積み重ねても正しい概念には至らない。要するに定義できる範疇にない言葉だ。食口であれば神様の存在、霊界の存在、救いのあるなしを当然のこととし、更にイメージとして固定認識までしてしまっているけれども、神様は存在するのかどうかとか、いるとすればどういう存在だろうかとか問い続ける人のほうが存在すると決めつけて固定認識している食口より正しい概念への道を辿っている。固定認識してしまうとどうしても教条主義的になるし、唯物主義的になる。御父様がメシヤであるとか、今度は御母様こそがメシヤだとか、イメージまでして固定化してしまった数々の原理認識によって、口にされた言葉を理解しようとするものだから間違いの上に間違いを重ねてしまう。メシヤという言葉を私は本当に理解しているのだろうかという問いが前提にあり、理解したいという意志を持ち、暫定的であり仮定的な今の認識を否定してみる嫌悪な感情も受け入れ、その上で御父様が語られた言葉、御母様が話された見解を良心の鏡に映しだしてみる。そこまでの内的霊的作業は面倒くさいからか投げ出して、実に唯物的で平面的な原理観という名の論理で判断してしまう、いや裁いてしまう。共産主義者と同じように、頭ばかり膨らんだ食口が如何に多いことか。メシヤかどうかはあなたが決定するものでもないし、あなたが判断するものでもない。しかしあなたが救いが必要な存在かどうかはあなたしかわからない。その救いへの渇望に対してメシヤであるかどうかの論理は役に立たない。
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