2018年8月8日水曜日
今日の想い 990(日本的信仰観)
一言で信仰と言っても宗教は山ほどあるし、ある特定の宗教の中でも宗派と呼ばれるものも山ほどあり、更に言えば帰依の違いで信仰観はそれぞれが異なっている。教会の中で宗派と呼ばれるものに今の三分割がなるのかどうかは未だ決められないが、信仰観を大きく分けると韓国的なものと日本的なもの、そしてアメリカ(欧米)的なものに分けられる。日本食口は日本を出て他国で信仰生活した経験がなければ、自分の信仰が日本的な信仰観だという認識も理解もないだろう。日本的信仰にどっぷりつかっているから柔軟性に欠ける固形塊のように、力が加わると壊れるのか耐えられるのか、全てに忠実であるかさもなくば信仰を捨てるか、という二者択一になってしまう。日本食口にとってアメリカの日本食口も、韓国に嫁いだ日本食口も、食口とは言えない信仰観をもっている、と言うより不信仰だとさえ思えるだろう。逆に日本から出た位置で日本食口をみると、実に頑なでガチガチの教条主義で、モノ言えぬロボットのようにもみえてくる。でも御父様は日本食口を忠孝の源として、その信仰観を誉められたし大きく買われて期待された部分でもある。ようするにその信仰観は、教会によって育てられた以上に、日本人が持ち合わせているそもそもの特性が信仰観の土台としてある。その特性故に原理を受け入れ、特性故に摂理を牽引し、特性故の信仰基準を持っている。そしてその特性のひとつは、群れとして集まり群れの中で周囲に合わせようとする性質であり、よって平均的な在り様を瞬時に察知しそこに自分をおいて行動する。原理を受け入れるのは修練会という集められた群れの中で受け入れたのであり、献身した群れの一員として摂理を牽引し、団体生活の中で信仰基準を立ててきた。御父様は日本人のこの特性が日本の霊界に起因するものだということを知っておられたし、御父様が掴まなければ結局邪悪な他の存在が日本人を用いただろう。そんな日本人(日本食口)は群れの中で群れの雰囲気を呼吸しているうちに、いつしか群れから出られない存在になってしまった。日本が次の世代へと運勢を繋いでいくためには群れを牽引する存在が現れなければならないのであり、御父様亡き今、その特性をもっともよく知って牽引できるのは食口以外いないのではないだろうか。御父様は天宙を主管し世界を主管される立場で日本を用いてこられたが、今一歩引いて日本を先ず立て直さなければ世界復帰も何もあったものではないだろう。立て直してからの国家復帰であり崩れ落ちて何を復帰するのだろう。食口の中に憂国の有志が立たなければ何処の誰にこの国の希望を見出せばいいのだろうか。日本食口の信仰観による信仰さえ立てれば、日本は滅びてもいいと本当に思っているのだろうか。
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