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結局は誰かが責任を取らなければならない。摂理として失敗した立ち並ぶ墓石の責任も誰かが取らなければならない。御父様に取らせておいて、口先だけで申し訳ありませんと唱えていればいいというものではないだろう。何とか営業し続けていれば目標に向かっていると言い訳でき、結果責任は先延ばしできるのかも知れない。でも私は、既に結果は明白なのに責められることを嫌い、言い訳のための体裁づくりに動き続けるのは飽き飽きしてしまった。誤魔化している事実は自分の良心が一番よく知っている。会社による資金提供という名の献金は何ミリオンとやってきた。提供せずに自分の責任で店舗展開や新ビジネスを立ち上げていたらどうなっていただろうか。出すだけ出したらそれで責任を移譲したのではなく、誰も責任を取らなければ無暗に出した責任として自分に向かって問われることになる。頂点である本部の決定事項は公的責任をクリアしていると信じたいけれども、たとえ本部であろうと所属する人、結局は人によって決められ、お金は投資したり使われたりする。作った側のお金の意味と重さに比べ、どれほどの汗水を流したか知らない使う側のお金の扱いは自ずと違ってくる。お金に変わった現場の精誠は、本部の決定の下にいとも簡単に使われて流される。本部にとっての現場から搾り取ったお金は、只の数字であってそれ以上の扱いは受けない。何万ドル何十万ドルが一瞬で消えても、申し訳ないの一言で済まされる。責任を取ると公言したのなら、指の一本でもつめてほしかった。せめて土下座でもしてほしかった。失敗した責任を誰が取るのか。誰も責任を取らないのであれば、渡した側の私が責任を取らなければならない。御父様が聖和されて、摂理を担い歩んできた食口達は、一度総括しなければならない。総括して負の責任の一つ一つの所在を明らかにして責任をしっかり取らなければならない。過去は忘れ去ったかのように、信仰だ原理だと大手を振るって生きるとしても、為し得なかった摂理に対する蕩減が霊的におぶさっている。食口の誰もが、特に責任者と言われた者達は、認識するしないにかかわらず霊的重荷を背負っている。蕩減の話をするなら当然のことで食口皆背中をまげて下を向いて歩くべきだ。罪の一つもないかのように、過去の失敗した摂理に絡んでいる自分を忘れて、誰が悪い彼が悪いとどの口さげて言い放つのか。
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