2018年9月27日木曜日
今日の想い 1005(洪水審判による恩恵)
御父様という大地を失った統一食口は、今まさに大海のど真ん中で漂流している。御父様がおられた頃の信仰観は、ただただ幼子の如くに袖を捕まえて離さずついていけば良かった。我々の信仰にとって御父様は大地そのものだった。大地を広大な船と言い換えてもいいかも知れない。御父母様は一体だから、御父様はおられなくとも御母様についていけば御父様に従うことになる、普通はそうなるだろう。たとえ思っていた原理と食い違うとも、御父様を否定するかのような言動をとられたとしても、それでも何とか付き従おうとするだろう。しかし食口は多少なりとも気付いているはずだ。今まで踏みしめていた霊的大地とは異なる、何とも腑に落ちない不安定さで、大地とは程遠い謂わば蜃気楼に等しい霊的感覚を、、。もし底なし沼であって、踏みしめることができなければ大地とは呼べない。実は自分は霊的大海に漂流しているかも知れないという現実を、いくら霊的に鈍いとしても薄々感じ始めている。かつて古代に人間は特殊な船を用意したことがある。神は人間をその船に乗せて安全圏に留まらせながら、その間それまで地上と霊界とが混同していた環境を明確に天と地に分けられた。40数期間雨を降らせた事実は霊を霊界に上らせる為だ。ノアの洪水以降、現代の地上の環境圏が初めて現れたのであり、それ以前の地上は水分を得た霊が地上や大気に留まっていて虹の出る光溢れる環境圏とは異なっていた。そして天地が分かれる、すなわち大雨という大気に存在する霊の水分を削ぎ落とす役事で霊を霊界に押しやり霊界と地上界が明確に分かれることで、人間は集合的魂から個の自我を明確に自覚するようになった。その本質は人間の中に、良心が働いて大海の霊的生を航行させ司る霊的船を用意させた。私達の中に良心を羅針盤とする船を戴いているのはノアの摂理による恩恵だ。その気付きは良心を自覚すれば自覚するほど実感するだろう。その船をどう設えるか、良心が私の中で十分光り照らす羅針盤となっているか、それによって私は御母様の御発言や態度をどう捉え、どう接するのかを決定するはずだ。再度言及したいみ言葉は、絶対信仰絶対愛絶対服従は良心に対する言葉であり、またこうも言われた。絶対信仰絶対愛絶対服従は生殖器に対する言葉だ。生殖器こそ天の血統圏に繋がる霊的象徴的器官だ。
2018年9月25日火曜日
今日の想い 1004
海外で暮らせば、自分の出身国がどれほど生きて生活する上で重要な要素になるかを思い知る。海外に行けばさしずめパスポート必需であり、日本国パスポートによって日本人としての待遇を受け日本人として日本国から保護されている。その認識があれば慰安婦だの強制連行だの大虐殺だのと、あることないこと自分からぶちまけて自国批判に火をつけることなどあり得ない。御父様も御母様も日本に対して批判的であるのは出自が韓国だからその通りだが、御父母様に霊的には全面的に帰依するとしても同じ口を持って批判する必要はないし同じ感情を持つ必要もない。日本人として日本文化の着物で身を包み、慰安婦を事実として謝罪行脚の先頭に立ったのなら、退会されようが今どこに所属されようがそれでもって日本国への罪を帳消しにされるものではなく、日本国に向けて顔を上げられるよう行動を取ることの方が先だろう。祝福家庭は御父母様の霊的血統圏にある子女であるけれども奴隷ではない。であるにもかかわらず自国を卑下してみたり、言われるがままに行動してみたりと、絶対服従と言いながらどうも子女としての姿勢ではなく奴隷然とした態度に終始しているようで、私としては日本食口への歯がゆさがある。そして奴隷である限り氏族復帰という発想など出てこない。復帰して祝福を受けさせ、御父母様への絶対忠誠を誓わせ献金ノルマを課せ続けるのだろうか。それが氏族復帰だろうか。食口は神様をどう捉えているのか、どう話を持ち掛けてもその認識から間違っているようで噛み合わないことがよくある。霊的位相を段階的に昇って行って最終的にオメガであられる神様に出会うわけだが、原理で説明を受けたことを勝手にイメージ解釈しそれを神様と祭るのはほぼ妄想に近い。原理を受けようが受けまいが、神様を見出す為に誰もが段階的に霊的位相の階段をのぼっているにも関わらず、原理を聞いたくらいで神様を既に捉えたと思い込んでいる単細胞食口がたくさんいる。氏族メシヤとして氏族復帰への使命を真剣に受け取るなら、氏族を途絶えさせずに私の代まで存続させた氏族の意志としての霊的柱を先ず想うべきだ。それは先祖供養や先祖崇拝で祈ってきた対象でもあるが、この存在こそが妄想的神様を敬う以上に畏敬の念で接し、意識もし、語り合わねばならない存在だ。それを無視して一足飛びに妄想的神様にどれだけお願いしようが聞き届けられるはずがない。個性完成するために良心に宿る神様であり、夫婦一体子女繁殖するために相対に宿り父母に宿る神様であり、そして氏族発展のために神様が宿る霊的柱は先祖の中に生きている。先祖祝福し解放したのであれば先ず先祖に自分の在り様を相談してみるべきだ。祝福はしたが無視し続けているなら祝福は活きない。それは神様を無視していることと同じ意味だ。
2018年9月21日金曜日
今日の想い 1003
9年前、頂上付近の山中で、捨てられた遺体の一部が発見された。浜田の女子大生失踪事件は、私の田舎の山で発見されて殺人遺棄事件となった。麓からギヤをセコのままで林道をくねくねと登っていくと頂上付近、道の途絶えたところに湧き水が出ている。山の湧き水目当てにポリタンクを積んで遠方からくる人は当時結構いて、そんな人達が周りを散策しているうちに発見したらしい。事件から7年が経とうとしていた頃、迷宮入りして解決は難しいと思われていたがやっと犯人が特定され、ある日突然そのニュース映像が飛び込んできた。被害者の無念な想いもさることながら、その山に見守られ育ってきたこの田舎の人間にしても、この事件によって故郷を蔑ろにされたようで何とも言えない嫌気感が心の奥でくすぶっていた。龍が臥して休んでいるような、そんななだらかな尾根伝いが臥龍山という山名とよく合っている。この田舎の発展を、臥した龍が傷を癒して天に上る日として待ち望みながら、しかし他の過疎地域と同様田舎に見切りを付けて出ていく者達は後を絶たず、今や龍が天に上る日が来ようなど信じる者は誰もいない。そんな状況で起こってしまったこの事件をどう理解したらよかったのか。被害者は犠牲として天が受け取るのか、それとも悪魔によって捨てられただけなのか。悲惨な事件だが、この手の事件はたびたび起こる。次々におこる事件が過去の事件を風化させ、今や地元の住民でさえ忘れかけている。しかしはっきりしていることは、被害者の親だけは過去の事実であろうが忘れることはできず、何年経とうとも心が癒えることはない。親は生涯を通して自らに問い続ける。子供に降りかかった悲惨な運命の正体を、それによって親が抱えざるを得ない責め苦が何なのか、どうして我が子なのかどうして我が身なのかを。それは犯人が特定された今でも問い続けて止めることはできない。この問いに対する答えは実は当事者が出す以外に、誰もどんな存在もだせない。人は必ず死ぬ。死ぬこと、この世を去ることで自らの人生を決定し結果を得る。その結果が地上生の出来事の全ての答えだ。そして当事者だけがその答えを得るのであって、他の者が意義付けしようとすれば結果を待たずに決定を無理に出すことであってそれは詮索好きな者の遊びに過ぎない。当の本人も、そしてご両親も、決して形ある言葉では表現しきれない霊的意味を、犠牲精神の尊さを天から受け取って欲しい。その祈りの言葉以外私には何もない。もしこの故郷の山中で、鎮魂の旅にこられたご両親に出くわしたとしたら、私はどんな言葉をかけるだろうか。おそらく言葉は何ひとつ紡げないだろう。犠牲精神の実体を前にして、涙し、首を垂れるしかない。
今日の想い 1002
田舎の実家にしばらくいた。この夏、西日本は豪雨災害に見舞われたが、実家の辺りも雨量は相当なものだったようで、玄関の戸を開けたとたんに湿気を帯びたかび臭さやすえった臭いが鼻を突いた。上がってすぐ部屋着に着替えて腰を落とすと周りを見渡した。いつもなら炬燵が出ていてもいいころなのに未だに扇風機をガンガンまわしている。暑いからというより湿気を追い払う必要があるらしい。なんか湧いて出そうだなと母にいうと、案の定後ろの方でナメクジが出てくると一言ポツリと返ってきた。とっさに笑い飛ばしたがナメクジに体を這われるような気持ち悪さはずっと残った。母は気付かずに踏んでしまったようで少々洗っても粘りは落ちないらしい。気を付けろと忠告されたが言われるまでもないだろう。それから便所に行く度に昼間でも、暗い道筋を目を凝らしてゆっくり歩を進めた。この歳でナメクジなんぞに振り回される自分が何とも情けないがこれが生きる現実だ。夜行性らしく来た当日の夜とその朝方、二回ほど出くわしたがそれからは目にすることはなかった。このナメクジ事件で、ナメクジは気持ち悪いのにカタツムリはどうして平気なのだろう、とか蛇は気持ち悪いのにウナギは触れるしヨダレさえ出てくるのも不思議だ、とかそんなどうでもいいことを考えさせられる羽目になってしまった。用事があって一旦は実家を出たが数日してまた帰ってきた。その間弟夫婦が盆に来れなかったのを返上するために来ていたらしく、母は嫁さんの闊達な話しぶりを報告してくれた。今回妹には会ったが弟には会えず、実家にいた間連絡を取ろうとしてくれたようだが繋がらなかったらしい。踏まれたら困るのでナメクジの件は話したようで、嫁さんは途端に顔が変形するほど気持ち悪がったようだ。一晩は泊まったがあくる朝逃げるようにして帰っていったという報告を聞いて久しぶりに笑い転げた。簡単なつくりの、更に100年は優に超えているこのあばら家を一体どうしたものか。父は住む人間もそう長くはないので放っておくしかないと口にするが、短いだけに少しの間でも環境を整えてあげたいと思うのだが、、一体どうしたものか。
2018年9月17日月曜日
今日の想い 1001
韓国には泣き屋がいる。総会をカネヅルにしている総会屋を雇っていちゃもんをつけるように、葬式をカネヅルにしている泣き屋を雇って弔いに花を添える。日本人にすれば何とも訝しい限りだが、だからといって一方的に否定して貶すのはよくない。清平またしかりだ。清平はある意味自分が泣き屋になる。泣き屋になって先祖を弔う。身を叩きながら涙の悔い改めをしながら、それは自分であって自分ではない先祖の諸々の霊達の解放されない想いや恨みを解放している。自分の内面に深く深く沈んでいくと、私という統一体の枷を外すことで統一体を成り立たせている一つ一つの霊達に出会える。それらが私という存在の基礎となっている。その基礎の霊達に私が何故に存在しているかの動機付けを天の心情に合わせることで私の解放は成就される。清平が尋常ならざるのは統一体としての私を遡っていく、すなわち時の流れに逆行するので仕方のないことなのだが、それが中途半端であっては返って霊的に支障をきたし清平大批判に繋がりかねない。清平は一次摂理が失敗したことによる二次摂理であって、それによる副作用も覚悟の上だった。今回痛哭祈祷による悔い改めの指示があったが、御母様による第一次摂理が軌道に乗らないため二次摂理の出発ということが痛哭祈祷の悔い改めの指示だろう。御母様の祈祷の中に恩赦という言葉も聞かれた。悔い改めあっての恩赦だろうから、中心的立場にいる二世達が御母様と一体化していないという理解を御母様がされたということだ。御母様は全面的に二世を中心として摂理を立てられたが、御父母様の願いを汲んでいないということが御母様と一体化していないという言葉に表されている。今回160日路程はより具体的な指示事項が出されているが、期待を背負っている二世達はここが御母様の信頼を得る正念場だろう。歌って踊って決意を差し出すだけでは願いに応えられない。実績を差し出すことを願われている。信仰をもって清平に来る二世も少ないけれども、清平で涙の悔い改めをしている二世はもっと少ないと思われるのだが、それは私の悲観だろうか。御母様の二世への期待を受けるに十分な二世の器だろうか。
2018年9月16日日曜日
今日の想い 1000
一体化するとは、、。絶対信仰とは、、。絶対服従とは、、。絶対愛とは、、。、、絶対とは、、。食口にとってこれらの言葉は決して新しい言葉ではない。御母様を中心として歩む以前から、先天の、それもかなり前から言わてきた言葉であり私達の歩みの姿勢のあるべき姿、態度として私達は捉えている。しかしこれらの言葉は本当に姿勢や態度としての言葉だろうか。そして姿勢や態度を間違えなければそれは良心が願う道と合致するのだろうか。姿勢や態度は繕うことができる、と言えば怪訝な顔をされるだろう。でも実際繕うことができる。本当のところは首をかしげているのに、あるいは訳がわからないのに、繕うことで自分を正しく導いてきたと誤解している。そして失敗を積み重ねてきた先天時代と同じように、自覚もなく自分を誤魔化して歩みながら、取り敢えずの不安要素を除くために周りに合わせ、合わせていれば勝利するだろうという何とも心許ないダロウ信仰で歩んでいる。ダロウ信仰は絶対信仰ではないことくらいは私にもわかる。自分の良心に嘘偽りのない絶対信仰絶対愛絶対服従としての自分の姿勢であり態度だと、確信して歩んでいるのならば勝利も確信しているはずだ。それは周りに合わせたり踊らされたりしているのとは全く異なる霊的に骨のある歩みであり、それ故に地上の実りも刈入れることができる。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは良心に対する言葉であるという、御父様のみ言葉は、今の混乱の時代に於いて、祝福を受け心情相続して真の父母の血統に繋がった一人一人が、個別にメシヤの称号を戴いた主体的位置で噛みしめなければならないみ言葉に違いない。烏合の衆化は一体化とは似て非なる状態だ。烏合の衆に本質はないし、真の血統に繋がった心情も生きていない。すなわち霊的に死んでいる。
2018年9月7日金曜日
今日の想い 999
誰もが生きるために必死だ。ここのところの日本の状況を見ればその感は益々強くなる。そして食口達も生きるために必死だ。地上で生きるのみならず霊的に生きるために必死だ。グループ派もサンクチュアリ派も家庭連合派も、霊的に生きようとしてそうなっている。グループ派は平和神経を祭り上げた結果の行動を取り、サンクチュアリ派は御父様のみ言葉と原理を祭り上げた結果の行動をとり、そして家庭連合は闇雲に御母様を祭り上げた行動を取っている。グループ派は共産主義的であり、サンクチュアリ派は原理主義的であり、家庭連合は帝国主義的に違いない。名前は家庭連合だけれども家庭主義的な行動をとっているとは思えない。氏族復帰という御題目は掲げられているけれども、数字だけを達成しようとするその行動は実に帝国主義的だ。しかしどれが正しいと結論を出したくはないし、それらの全てを悪にくくってしまおうとも思っていない。食口の数だけある信仰観を、それでもまとめ上げようとすれば自ずと幾つかのグループに分けざるを得なかった、というのが天の事情だろう。そして中にはどこにも組しない無派閥も存在する。そしてそれも私は悪にくくろうとは思わない。確かに内村のように無教会派が出ることも天の思し召しに違いない。それもまた必死で霊的に生きようとした行動だ。私はというと、それらすべてが一つになり得る何らかの中心的動機が天と共にあるはずで、もしそれがないなら天は一なる存在とは言えないのであり、その中心的動機を氏族復帰の中に尋ねていこうとしている。そしてその姿勢を私の氏族は歓迎してくれるはずであり、私の生きる道はそれに違いない。
2018年9月5日水曜日
今日の想い 998
信仰生活の中で多くの疑問が湧いてくるだろうし、それらの回答のほとんどを受け取ることなく、追われる日々に埋没し忘れ去ったまま生きている。原理は聞いたけれども、み言葉は一度の地上生では消化しきれないほどに頂いたけれども、しかし疑問は減ることもなく、いやかえって増えているだろう。そんな状況でどのように氏族メシヤとして氏族を引っ張っていけるだろうか。み言葉の訓読は確かに大切だ。み言葉の中にこそ答えはあるというのはその通りだ。しかし答えを見出すも否も、私に答を受け入れる器があるかどうかだということを忘れてはならない。ということはただ待っているだけで訓読しても何の答えも得られないという事だ。待つことは器を用意する姿勢ではない。摂理だ摂理だとコロコロと変わっていく状況に合わせて歩んできたつもりだろうが、内心ではまた状況は変わっていくと思っていて、何一つ本気で事にあたってはいなかった。退路を断って事に当たってこそ器を用意することができる。そうして壁にぶち当たってこそ真剣に求める。それは訓読しながら文章の意味を問うのとは明らかに異なり、み言葉の意味を本当に問うている。メシヤとは何かを問うのに、私が何らかの救いを必要としていなければ、メシヤの意味を知ったところで何の意味もない。御父様がメシヤかどうか、では御母様はどうか、そんな論議をしていられるのは救いの必要のない人々だ。少なくとも私はそう言い切れるし、私自身は必要どころか切実だったしよって救いを得た。生きるも地獄、死ぬも地獄の、あの自我の分裂しそうな状況を抜け出せたのは御父母様への帰依に拠っている。若い人々は悩み抜くべきだ。悩んで悩み抜いてこそみ言葉を受け入れる器を用意できるし真剣に求める。地上天国が何かもわからない者達が地上天国を築いていく?誰もが即座に答えるだろう。あなたのイメージする天国は私が求めるものとは違うと、、。人間は霊的存在だ。霊的存在であることの意味は霊的に生きる為の何かを求めている。それが真の愛であることは食口にすれば疑う余地のないことだが、真の愛どころか愛に不慣れな、愛の何かを知らない者達にとっては愛を受けることから手ほどきしなければならない。そこにいきなりみ言葉をぶちこんでも豚に真珠だろう。私の環境圏にいる人々を愛し、親兄弟達を愛するところから出発すべきだが、果たして私達に彼らを愛するほどの力が備わっているだろうか。信仰生活を通して歩んできた数十年間は愛の訓練だったと言えるだろうか。愛の訓練として完璧だろうが適当だろうが今の愛の位相から出発する以外他に方法はないだろう。
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