2020年2月24日月曜日

2034年

2034年という数字。祈っていて急にこの年数が伝わってきた。私は以前、御父様の口からはっきりとこの数字を聞いたことがある。それは清平での話だったと思うが、「?年にすべては終わる。(実はこの?年が記憶から飛んでいる)それが難しくても2034年には終わる。」と話されて、2034年というと私は何歳だろうとその場に居ながら頭の中で計算したのを確かに覚えている。今年は2020年であり、これからの7年路程で2027年、2034年となるとさらに7年を加える。要するに三次にわたる7年路程で御父様が口にされた2034年になる。一世達のどれだけが生き残ってその年を迎えることができるかはわからないが、神様の摂理はその年までは見えるものとして続いている。果たしてその摂理の流れを見通して歩む者が食口の中に数えるほどでもいるだろうか。御父様がおられない今は現時点での摂理状況を説明してくれる人は誰もいない。しかし誰もいないと諦めるのではなく、切実であれば霊界に尋ねざるを得ないし、祈ってでも条件立ててでも尋ねる意志を益々強く持って、誰でもない祝福家庭が、この私が御父様に変わり世の光となり摂理を見通すべきだ。そうなってこそ第4次アダム心情圏時代だ。祝福家庭は第4次アダムだ。

2020年2月23日日曜日

今日の想い 1057

日本は島国だから本当にやる気さえあれば国内感染はある程度防ぐことができた。水際水際と言っているが所詮中国頼りの経済だから、口では来るなと言いながら体は拒めない。後手後手に回ってしまって結果ウィルスは国内になだれ込んだ。既に日本全国に新型コロナウィルスはまき散らされている、と認識した上で対処する以外ないだろう。今回の清平詣でも感染することを心配した食口も中にはいたが、大方は気にもしないか信仰ゆえに守られると信じて参加していた。ひねくれている私などは逆で信仰をもっていればこそ感染して試されるのではないかと思ったりする。しかし実際はどちらでもないだろう。信仰如何に関わらず肉体を持った同じ人間として等しくリスクにさらされる。霊界を信じ自然界の摂理も神様の業か許可だと信じる者として、戦々恐々とし好き勝手に情報を言いふらす無責任マスコミとは異なる認識と意志を差し出すべきだろう。事態が大きければ大きいほど、生半可な思考で内外の原因や目的を見出すことはできない。解決方法や救援方法となるとなおさらだ。霊界を信じ、神様を信じる者として誰よりも誰よりも問い続け尋ね続ける不断なる強い意志を持たなければならない。意志は真の愛であるところの為に生きる愛の最も大切な魂活動だ。祈り求めて諦めない姿勢が霊界を動かすと共に社会を動かし国さえも動かす。祝福を戴いた者が今すべきことは、世俗を無視し御父母様にだけ顔を向けて明日を繋ぐのみならず、この世の者達にもそれ以上に顔を向けて救いの手を差し伸べるほどになるべきだ。祝福を受けているにも拘らず自分は堕落していて御父母様にべったりくっついていなければ救われないという意識で汲々としているなら、この世の人達は捨てられて当然だということになってしまう。このウイルスだけの問題ではない。これから続々と国難がやってくる。神様に最も近いはずの祝福家庭の意識改革は何よりも急を要する。幼子の信仰というけれども、幼子は純粋だけれども最も我儘でもある。祝福家庭が我儘で独善的であっては救えるものも救えない。

2020年2月15日土曜日

今日の想い 1056

新たな7年路程が始まった、ようだ。2020年までの7年路程は基元節を正しく迎える為の延長路程だった。延長だから区切りをつける必要はなく、先天と同じ意識で歩めばそれでよかったとも言える。しかしその意識は先天意識であって後天時代を迎え後天時代に生きる意識とは言えない。人間は霊的存在だから霊界を認識しているしていないに関わらず、新しい出発をするためにはそれまでの歩みと区切りをつけ、それまでの歩みがどうであったか、そして新たな歩みの意味付けをすることによって出発できる。新たな船出は過去を総括してこその話だ。それがみ旨と摂理の次元の話であっても同じで、そこを曖昧にしたまま歩もうとするものだから食口の多くは内的霊的に変わりようがない。内的霊的に変わらないと現実の自分も変わらない。御父様は聖和された。この事実の内的意味をどれだけ問うただろうか。信仰において、摂理観において、そして組織の在り様においても深く問い続けてこそ新たな歩みへの意志を備えることができるはずなのに、総括して区切りを付けずにだらだらと負け癖を続けている気がする。2012年9月3日、御父様聖和のネットのニュースが先ず飛び込んできて、教会サイドから告げられたのは一日置いてからだった。私は御父様が聖和されたことを告げられた夜、祈りながら妻の目も憚らず嗚咽した。それは決して自分の感情からくる感傷的な涙ではなく、背後の霊界が私を通して一つの区切りを付けようとする儀式だった。感情から来るものではない自分の状態に自分が驚いていた。霊界全体が涙を流し雨に濡れる摂理的儀式だった。イエス様の時は血の犠牲を払われて霊界全体が血を流した。そして弟子達や多くのクリスチャン達は血を流す霊界の在り様を地上でも体現した。汗は地の為に涙は人類の為に血は天の為に。何度も言っているように統一教会は苦労の百科事典であり涙の絶えない群れだ。それは御父様も御母様からしてもそうだ。先天時代を総括し後天時代を出発するために私達がどう意志を差し出すのか。霊的に生きる者としての涙の総括は、論理だけで納得させてそれで良しとするのではない神霊から受け取ってこその総括であって、それを踏まえて後天時代の連霊性による統治摂理が始められる。

今日の想い 1055

原理は科学的というより論理的であり、現代人の理解認識に整合性を得るものとなっている。しかしあくまで聖書をベースにしていて、聖書の記述が正しいことが大前提だ。と言う事は聖書を信じるクリスチャンを対象にしているということになる。私達は原理を学ぶ過程で聖書が正しいことを受け入れた者が多く、いわば俄かクリスチャンだ。自分はクリスチャンではないと思っている食口もいるかもしれないが、それでも原理を通して入った者は俄かクリスチャンだ。では御父様を受け入れ、聖和された後には御母様を受け入れた牧師達は、果たして原理というみ言葉を論理的に理解したから受け入れたのだろうか。おそらく私達一世が受けいれたような理屈からではなく、神霊として内的霊的に受け取ったから御父母様を慕っていると思う。御母様が独生女だと、神様の一人娘だと断言されても、牧師達の動揺を思ってオロオロした私達の危惧とは裏腹に、彼らは当然の事のように御母様を受け入れている。逆に牧師達は御母様の言葉に動揺する者達を見て、所詮俄かクリスチャンだと思っているのかもしれない。では牧師達は先祖祝福に対してどう思っているか、また430家庭祝福に対してはどうか。実はこういった教条的な目標(ノルマ)に対しては先ず宗教者連合では食口に話すようには話もしていないだろうし、是々非々の各牧師、宗教者は話しても聞き流して終わりだろう。清平信仰は当然ないが、食口の信じるところを敢えて否定するものでもないというのが牧師達のスタンスだ。原理を聞かせて真の父母の価値を植え付け、そして祝福させるという選択以外に、様々な形で祝福へ至る道も用意されていて、そうなると食口は柔軟性を受け入れなければならない。アベル意識に偏ればカインを受け入れないように、祝福とそれに伴う責任に偏ってしまうとこの世と条件を満たさない者達を排他的に扱ってしまう。御父母様は一方で祝福を、その一方で恩赦を下さっている。日の当たらない者達への配慮が信仰を崩すものであるなら、それは自分に心地よいだけの天国を囲いこんで囲いの外の地獄をわざわざ作っていることになる。

2020年2月9日日曜日

今日の想い 1054

悪神の背後に善神あり、悪神の業に時差をつけ善神の業が為される。これは信仰生活を通して学んだ裏切らない法則の一つだ。いつどんな打たれる状況でもその背後に必ず同等かそれ以上の恩恵が待っている。それが今や霊界が近いという証明でもある。その意味では打たれる時は進んで打たれてこそ恩恵は一気にやってくる。長い蕩減路程は必要なく、甘受の心情で打たれると手のひらを返したように恩恵がやってくる。難しいのは簡単には俎板の鯉のごとく受け入れられず、イサクの基台で教えられた三日路程では供え物の私を収拾できない。今問題になっている新型肺炎だが、人類にとっては悪神の業に違いない。誰であってもエボラにしろサーズにしろ、そして今回の新型コロナウィルスにしろ感染してほしいわけがない。しかし個々の人間の無意識圏にあって繋がっている人類の集合的意識が、悪神の業を呼び起こしていることもまた事実だ。堕落して地上という地の底に下って生きることを選択した人類が、当然の事としてこのような甘受すべき事態に遭遇する。心情圏に生きる私達には死という概念があってはならない。地上生活の終わりには昇華して天上に生まれるのであり、それは忌み嫌う死ではなく受け入れて御意にゆだねる地上最後の献祭路程だ。私達は地上生活の節目節目で新たな私に生まれ変わる献祭路程を一つ一つ超えているが、昇華して地上に残す肉体は献祭路程の総まとめだ。地上ではなく霊界にある集合的意識は、偽りの愛が混入された出来そこないの人類であることを知っている。神様に繋がり本然の人類に立ち返りたいと、罪を清算すべく最終意志が働こうとしている。それは世界人類に降りかかる献祭路程として、地球全てに何某かの黒い網がかけられる。その暗闇の期間は三日(?)だ。そのD-DAYを通過すれば真の愛による新しい光がもたらされる。ようするにサタンが直接に関与する最終的悪神の業がまず現れ、神様が直接関与する新時代の初めての善神の業が現れる。今回の新型肺炎がそれであるとは思わないが、準備するための地球的業であることは間違いない。

2020年2月2日日曜日

生活を原理化するために

原理を受け入れた私達は神様の存在を知っている。そして信じている。原理を受け入れた私達は霊界の存在を知っている。そして信じている。しかし神様を生活の中に掴んで生きていないし、霊界を信じるという言葉だけで霊界の働きを実感もしていない。神様も霊界も死んだあの世に追いやっていて地上生活とは何ら関わりがない。その状態を人に言わせれば盲目的という。見えないし感じないあの世のことだから、裁きの閻魔大王まがいの神様にも思えるし冠を付けておられる御父様の姿にも思える。また、罪状を首にかけて隠れるように生活する霊界様相かも知れないし宴の毎日が催される霊界様相かも知れない。ようするに見えないわからないあの世を訝り適当にイメージしながら、であれば言われるがままに行動すればあの世に行って損はないだろうと結論付ける。いわゆる打算的教条主義だ。しかしそれは原理の生活化とは程遠い。私達は、少なくとも御父母様と共に摂理を担ってきた者達であるなら、神様を掴んで生活すべきだし霊界の働きを痛いほどに肌に実感しながら生活すべきだ。その意志を差し出すことを辞めてしまえば、たとえ外的には御父母様に付き従っていたとしても精神の怠慢であって霊も真の神様も無視した生きた屍になってしまう。私は自分の作る偽りの神様像に対して愚弄したことがある。子供の事、妻の病の事、任せられている店の事、抱えきれないほどの問題を押しやられて私の感情は爆発した。耐えて耐えてきたが、私はヨブにはなれなかった。言われたこと決められたことを粛々とこなしていれば罰を受けることはないはずだという御利益信仰だった。その御利益信仰の対象こそ偽りの神様像だった。罰と思える人生の難事は実は引き受けることを決意してこの世に生まれ出でた犠牲的使命だった。偽りの神様像に目一杯悪態をついたあと、内面の内面から自らの使命に生きることを善しとする真の神様を掴む意志を備え始めた。良心は良神であり良心が良神として立ってこそ霊的柱が立ち霊的に生きる。

2020年2月1日土曜日

今日の想い 1053

天から見ればまだ足りなく、供えた身も心もすべてを受け取ってもらえるのではなく、偽りの部類に数えられる情も行動もあったとは思うが、それでも言わせてもらえば並々ならぬ苦労もそれなりの結果も供えてきた。給料なしで奉仕してきた期間は、戴いていた期間をはるかに超えていたし、誰よりも涙を流し、誰よりも悔しい思いをし、時には血の小便まで流しながら喰らいついて来た。しかし私達や私達の組織の体質は、過去は流れ去ったものとして一切を不問にする。摂理に失敗し続けても何も問われないし、逆に栄光を供えたとしても何もしなかった者と同じ出発点に立たされる。その結果が、頑張ります決意しますという、中身空っぽの決意表明だ。どんな集会もどんな摂理も空っぽの決意表明で溢れかえっている。それは食口を共産主義と同じ社会にしてしまう。供えようが供えまいが受け取るものも生活基準も同じであって、そうなるとモチベーションは低いところに留まるという、共産主義社会の実態そのままを現している。別に不平不満を言っているわけではない。自分自身もその体質に慣れ親しんでいて、別に給料が少なくても何の文句もなかった。しかし様々な従業員がいる中で、安い給料でまじめに働く兄弟と違い、給料を上げて欲しいと言ってくる者は上げればやる気も見せてくる。兄弟は給料を上げても何ら変わりはない。自分ができることを見限っているからだ。その現実を見ながらハタと同じ食口である自分の在り様も同じだと気が付いた。その意味で先天時代の教会や教会組織の在り様では食口は成長しない。すくなくともこの世の万物主管力や人材教育力などの外的実力は備わらない。他のマネージャーは言う。二世をはじめ人材が集まらないのは魅力ある会社ではないからだと、、。さて魅力ある会社?、、 聞いてみると労働時間が決められているとか、給料や報酬がしっかりしているとか、小奇麗な店舗だとか、そんな外的環境をどれだけ整えたところで実力ある人材は集まらないし育たない。それよりなにより店長や従業員がやる気溢れて輝いている方がよっぽど良き人材は集まる。自分の意志ではなく中心か誰かに言われてやっている、いわゆる腰掛店長だから腰掛従業員しか集まらないし、自分の給料を安く抑えられて手足を動かすだけの働きであるなら、他に雇ってくれないし給料が低くても仕方ないという自堕落な従業員が怠惰な働きで居座る。先天時代の教会体質はこの世も二世達にも受け入れられないし、けっして天国社会でもない。